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「聖ドミニコの生涯」シスター武田教子

「サンタ・サビナとサン・シクスト」 Ⅳ

晩夏


 神はドミニコに、非常に感じ易い心をくださったので、彼の心はすぐに相手を感じ、喜ぶ人とともに喜び、不幸にある人とともに泣いた。彼の心は、決して計算ずくではなく、いつも素直に相手に向けられていたので、すぐに相手と共感し、彼の心の動きはすぐに顔に表れた。しかし、彼は、感情によって、高く飛翔する心を妨げられることもなければ、人についての判断の均衡を失うこともなかった。
 彼はすべての人を愛したが、特に、彼にとってより近い人たち、即ち、司祭、修道者、そして兄弟たちを愛した。彼は、すべての人に、自分の持っている最高のもの、即ち、キリストの知識と友愛をわかち与えたいと望む。この希望の故にこそ、彼は、厳しく要求したのである
 同時に、悩みの中にいる人にとって、彼に勝る慰め手はなかった。証人たちが何度も繰り返す「慰め」という言葉を、どのように理解すべきであろうか?愛情表現であろうか?知的あるいは行動上の困難を解決する光を与えることであろうか?否。むしろ、ドミニコは、彼らを、キリスト者としての自覚に呼びさましたのである。「慰め」とは、痛みを眠らせることではなく、やわらげることでさえない。ドミニコにとって、慰めるとは、打ちひしがれた内心の力を立て直し、漲る生命力を取りもどさせることであった。
 そのために、修道者たちを修道者として養成し、知識を得させる必要があった。日中を民衆のために使うドミニコは、早朝と夜を修道者たちの養成にあてた。セシリア修道女は、次のような逸話を残してくれている。
 「ある夜、ドミニコが、いつもの時間になっても姿を現さないので、もう今夜はお見えにならないものと思い、修道女たちは、寝室に退いてしまいました。ところが、突然、ドミニコが来た時に鳴らすことになっている小さな鐘が鳴りました。修道女たちは急いで聖堂に集まって囲いの戸を開くと、ドミニコは既に数人の兄弟と共に座って待っていました。彼はそれから修道女たちに訓話をし、修道女たちは慰めに満たされました。話終えると、ドミニコは兄弟たちを振り返り、『少し喉を潤そうではないか。』と言いました。一人の兄弟が葡萄酒を持って来ると、ドミニコは、カップになみなみと注がせ、祝福して、まず自分が飲み、いっしょにいる兄弟たちに次々と廻し、皆が飲みました。ついで、ドミニコは、『こんどは修道女たちにも飲んでもらおう』と言い、葡萄酒をなみなみと注いだカップを持って来させました。カップは溢れそうだったのに、葡萄酒は一滴も零れませんでした。」修道女たちは、院長から始めて、次つぎとカップを廻して飲みました。ドミニコは、何度も、『沢山飲みなさい。好きなだけ飲みなさい。』と声をかけ、彼女たちは思う存分飲みました。」
 ドミニコの面影を彷彿とさせる逸話である。
 1221年5月10日の少し後、ドミニコは心を込めて育てたサンタ・サビナとサン・シクストの修道院、そして、沢山の友人を残してローマを去った。サンタ・サビナ、は教会のただ中で働く兄弟たちを象徴するかのように教皇の要塞の中にしっかりと据えられていた。もうドミニコは去ってもよいのだ。二度と再びサンタ・サビナもサン・シクストも教皇も、ローマも見ることはないということを、ドミニコは感付いていたのであろうか。
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「聖ドミニコの生涯」シスター武田教子

「サンタ・サビナとサン・シクスト」 Ⅲ

紫陽花22



 夕方はサンタ・サビナに戻り、兄弟たちと共に祈り、夜はそこで休んだ。とはいうものの、夜を徹して教会で祈り続ける習慣は失われていなかった。睡魔に襲われると、わずかに祭壇の石段に頭を凭せかけて休むのであった。夜半には、兄弟たちの寝室を廻り、小さなランプを頼りに、眠っている兄弟たちの掛物をなおし、祝福して歩いた。時には兄弟たちの寝室の端、教会に最も近い一隅で、彼自身も休んだ。この一隅は、現在「聖ドミニコの部屋」として、小さなチャッペルに改造されている。
 ドミニコは、常に、自分自身にも人にも厳しく、夜を徹して祈り、役務を遂行し続けた。彼はあまりにも英雄的で、硬く、冷たく、近寄りがたい人物であったのであろうか?
 ドミニコが、如何に厳格に規律を遵守し、兄弟たちにも遵守を要求したかを語る証人はみな、彼がそれを「やさしく」、「親切な」仕方でしたので、過失のあった兄弟は、素直に罰を受け入れるに至り、慰めに満たされて帰ったとつけ加えている。証人たちのことばを借りれば、彼は「非常に均衡がとれており、忍耐深く、親切で、慈愛にあふれていた。非常に親しみ易く、また、正しい人だった。」」朗らかで、喜ばしげで、忍耐と慈愛に満ち、兄弟を慰めるときには溢れるばかりの親切を感じさせた。}


「聖ドミニコの生涯」シスター武田教子

「サンタ・サビナとサン・シクスト」Ⅱ

大野家 バラ1


 その日のうちに、サンタ・ビビアナ修道院の大多数の修道女、即ち四、五名と、単独で修道生活を営んでいた修道女数名も到着した。今から修道生活を始めたいと望む人まで数名集まってきた。こうして、サン・シクスト修道院は創立された。ホノリウス三世教皇から託された任命は果たされ、ドミニコは物心両面で彼女たちの責任者となった。
 その後₅、ひそかに、もうひとつの行列が行われた。それは、かつて、セルギウス三世教皇がラテラノ教会に運んだとき、「窓から小鳥のように飛んで」サンタ・マリア・イン・テンプロに帰って来たと言われている聖母のご絵を、新しい住まいに移す行列であった。これを日中に行うと、信心の邪魔をされて憤慨する民衆が騒動を起こすかも知れないと懸念したためである。ドミニコと二人の枢機卿は、松明に照らされながら、裸足で、肩に乗せて、そのご絵を運んだ。兄弟たちと信徒の代表がこれに従った。修道女たちも裸足で、祈りながら到着を待ち、ご絵を恭うやしく聖堂に安置した。この時の修道女ひとり、セシリア修道女は、生涯の終わりに、「ご絵は今でもそこにあります」と証言している。この証言は、修道女たちが、聖母のご絵がもとの修道院に帰ってしまうのではないかと、はらはらしながら見守っていたことを感じさせてくれる。
 ドミニコは、サン・シクストの修道女たちに規則や慣習を教えるために、プルイユから八名の修道女たちを呼び寄せた。彼女たちはツールーズのフルク司教および数人の兄弟たちに伴われて、おそらく四月の初めに、ローマに到着した。なつかしい兄弟姉妹、苦しみも喜びも共にして働いた司教との再会の喜びは如何ばかりであったろうか。
 この新しい修道院に、ドミニコは、聖アウグスティヌスの戒律と、プルイユの規則をもとにした会憲を与えたが、この会憲を高く評価した 教皇は、あらゆる女子修道院にこれを採用させようとした。それで、サン・シクストの会憲は、非常な勢いで広がっていった。聖ドミニコが、偉大な会憲起草者のひとりに数えられるゆえんである。ちなみに、兄弟会の会憲はイギリスの憲法に影響を与え、アメリカの大統領選挙の方法もその影響によるといわれている。
 しかし、会憲がどんなに立派なものであろうとも、それだけでは足りない。サンタ・サビナに住むようになったドミニコは、サンタ・サビナからサン・シクストへの道を何度も通って、修道女たちの養成に力を入れた。ドミニコに残された時間は、あと僅かであった。サンタ・サビナの兄弟たちの数も次第に増し、兄弟たちの養成にも力を注がなければならなかった。ローマの民衆を相手にした説教も、欠かすことができなかった。ドミニコは若い兄弟の何人かを自分の説教役務に連れて歩いた。




「聖ドミニコの生涯」シスター武田教子

「サンタ・サビナとサン・シクスト」 1
 
なでしこ


 1221年2月24日、灰の水曜日。修道女たちがサン・シクストに集められるのはこの日と決まった。
   
   注。灰の水曜日とは、キリストの復活を祝う日から逆算して日曜日を除  いて四十日、即ち日曜日を加えると四十六日前の水  
     曜日で、この日、人びとは灰をかぶり、悪を断ち神に立ちかえるろうとの決心を表すところから、この名がある。この日から
     復活祭までを四旬節と呼び、特にキリストの受難と死を思って快楽を避ける。

規律を正し、禁域制をとりいれるための移転に、これ以上ふさわしい日はなかろう。

 この移転は、教皇からドミニコに委任された事業であったので、三人の枢機卿が立ち合うことになっていたが、彼らは当日は九時までにラテラノ教会まで行かなければならず、そこから、教皇に従ってサンタ・サビナ教会まで行き、そこでミサを捧げることになっていたので(現在も灰の水曜日には、教皇は、サンタ・サビナ教会でミサを捧げる習慣が残っている)、枢機卿たちは、早朝、サン・シクストに赴いた。
 ところが、いざ移転が行われようというとき、枢機卿に随伴していたナポレオンという青年の馬が暴れ、青年は馬から振り落とされてしまった。青年は、早朝から昼過ぎまで意識不明のままであったので、人びとは、彼はもう死んだものと思ったが、ドミニコの祈りによって奇跡的に恢復し、もと通りの元気な姿で枢機卿のもとに帰っていったという。
 この事件のために、移転は日延べされ、実際に移転が行われたのは次の日曜日、二月二十八日であった。即ち、四旬節の第一日曜日、ドミニコは、サン・シクストの入り口で修道女たちを迎えた。サンタ・マリア・イン・テンプロの修道院からは、全員がサン・シクストに移転した。と言っても、残っている名簿によれば、彼女たちは五名であった。ドミニコは、その場で、彼女たちに白衣と白のスカプラリオ、そして黒いベールを与えた。これは、プルイユやマドリードの修道女たちと同じ服装である。着衣が終わると、修道女たちは、ドミニコの手の中に誓願を立て、ドミニコの指導に従うことを約した。


 

「聖ドミニコの生涯」シスター武田教子

「ロンバルジア地方の説教」 Ⅲ

すいせん



説教活動の結果として、ロンバルジア地方には、修道院がいくつも設立されていった。ところで、修道院設立のしかたは、従来の伝統的な修道会の場合と全く異なる、むしろ正反対のやり方であった。 従来は、修道院設立のためには、基本財産として土地が必要であり、土地の寄贈を受けることなしに修道院をはじめることはできなかった。しかし、説教者兄弟会の場合は、ミサ聖祭を行い説教をするための教会の寄贈は受けたが、その教会に付随する財産は、現在の所有者の手に残すか、あるいは、司教区に返納した。 時には、この条件が契約書にはっきり示されていることもある。こうして、修道院は財産なしに設立され、兄弟たちは、その教会に集まる人びとに霊的糧を与えながら、貧しく、托鉢で生きたのである。
 この年の五月、ドミニコは、画期的な許可を教皇から受けた。説教者兄弟会の修道院では、どこでも、携帯用祭壇の上でミサを捧げてよいという許可である。というのは、それまでは、石の祭壇のある教会だけが教会として聖別され、ミサは、聖別された教会でしかミサを捧げることができなかった。兄弟たちが、聖別された教会を持っていない場合、政務日課を歌いミサを捧げるために聖別された教会を借りなければならず、そのためには、時に、相当遠くまで行かなければならなかった。この許可を以て、兄弟たちは、自分たちの住んでいるところで聖務日課を歌い、ミサを捧げることができるようになったのである。
 これで、新しい設立もより容易になった。今までのように、既存の聖別された教会を譲り受ける必要が無くなったばかりでなく、まだ教会のない辺境にまで進出して行くことが容易になったのである。
 さて、1220年12月末、ドミニコはローマにいる。いよいよサン・シクスト修道院の計画を実現するときがきた。
 1219年から20年にかけてのローマ滞在中に、ドミニコは、説教と指導をもって多くの修道女たちに信頼をかち得、教皇から委任された事業 ― 規律も殆ど無くなっていた八十名位の修道女を一か所に集め、規律を正し、禁域制をとりいれさせること ― の準備を整えたのであったが、数か月留守の間に、これに反対する修道女の親族等の妨害があり、修道女たちの心もゆらいでいた。ローマに戻ったドミニコは、サンタ・マリア・イン・テンプロの修道院に現れ、ミサと説教を通して再び修道女たちの心をかち得、院長以下全修道女は、ドミニコに従う約束を新たにした。
 しかし、修道女たちは、サン・シクストに移るについてはひとつの条件をつけた。修道院には、修道女たちの信心の支えであり、また、ローマ市民からたいへん慕われている聖母のご絵があった。このご絵は、よそに移されるのを拒否するといわれている。かって、セルギウス三世教皇がラテラノ教会に運んだが、「窓から小鳥のように飛んで」サンタ・マリアに帰ってきたといわれている。そこで、条件というのは、もし、このご絵をサン・シクストに運んで、ご絵がそこに留まるのを拒否してサンタ・マリアに帰るなら、修道女たちは約束を解かれるというものである。ドミニコは、快くこの条件をうけいれた。
 しかし、修道女をサン・シクストに移すには、もうひとつの妨げがあった。サン・シクストに住む兄弟たちの数が次第に増しているので、サン・シクストに修道女たちをいれるためには、兄弟たちを住まわせる場所を探さなくてはならない。
 ドミニコは、教皇の所有にかかるアベンチーノの丘の上の城砦に、かねてから目をつけていた。その中には、五世紀に建てられたサンタ・サビナ教会もあった。彼は、大胆にも、これを譲り受けることを教皇に願い、願いがかなえられる。兄弟たちは家具と書籍を持ってサンタ・サビナに移り住み、いよいよサン・シクストに修道女たちを集める機は熟した。
プロフィール

聖ドミニコ女子修道会

Author:聖ドミニコ女子修道会
長い歴史があるキリスト教カトリックの女子修道会です。日本では、学校や幼稚園、児童養護施設でキリスト教に基づく教育をしています。また、教会、病院、黙想の家、その他でも<みことば>を伝えています。

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