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「聖ドミニコの生涯」 シスター武田 教子

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田 教子 「イエス・キリストの説教」 Ⅲ

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モレアルの近くでおこったということだけがわかっているあるできごとがこの時のことだとすると、ドミニコはこの論争のある部分を受け持った。或る夜、ドミニコは、自分が論争中に引用した聖書や教父のテキストを書き出し、よく考えるようにとカタル派側に渡した。すると、そこで次のようなことがおこったといわれている。
 「夜間、異端者たちは火のまわりに座っていた。ドミニコから紙を渡された人は、それをまわりの者に渡した。その時、仲間たちはその紙を火の中に投げ込むことを提案した。もし焼けてしまえばそれは信用するに足りないものであり、焼けなければ信ずるべきだろう。全員この提案に賛成した。そして紙を火中に投げ込んだ。紙は火の中にしばらくとどまっていたが、焼けることなく火から飛び出してきた。皆は呆気にとられた。より頑なな者が、『もういちど火に投げ込め。そうすれば真理がもっとはっきりわかるだろう』と言った。それで、もういちど火中に投じたところ、もういちど、焼けることなく出てきた。これを見た頑なな者は、『三度投げ込め。そうすればはっきりするだろう』と言った。それで三度投げ込んだ。しかし紙は燃えず、そっくりそのまま出てきた。しかし、これを見ながらも、異端者は改宗しようとはしなかった。そして心の頑ななままに留まり、この奇跡が知れ渡らないようにといましめた。しかしそこに居合わせ、既にカトリック信仰に傾いていた一騎士が、自分の見たことを隠すのをよしとせず数人に語ったのである。」
 この逸話は、典型的なものである。論争の裁定者は、それだけ知的なものを持っていなかったので、テキストを読むよりも奇跡に頼ろうとした。しかし、モレアルの人びとは、奇跡と反対の決定をした。・・・・・
 この論争は、当時の神学論争のやり方にならっている。即ち、テーマをいくつかの質問にわけ、それをまず二流の神学者の間で論争させる。次に師たる者が、こうして解けかかった質問をひとつずつとりあげ、結論または決定にもっていく。こうして問題全部を扱った後で、敵味方それぞれ自分たちで集まって、証明と反論を付しながら論争をまとめ、決定を記す。
 このモレアルの論争では、何人かの説教者がまとめをつくったがドミニコのまとめが最良と判断され、カトリック側の代表としてえらばれたという。
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「聖ドミニコの生涯」 シスター武田 教子

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田 教子 「イエス・キリストの説教」Ⅱ

マンサク 1


 1207年春、ディエゴ、ラウル、ドミニコら教皇派遣の説教者たちは、この町に集合した。カタル派対カトリックの論争が行われることになったのである。
 この出会いを提案したのは、多分カタル派だったろう。ディエゴやラウルの論戦に対して、ばらばらに毎日毎日対決するよりは、まとめてしたいと考えたようだ。
 しかし、このような公開討論はカトリック側にとっても望ましいものであった。公開することによって、カタル派の説教をきいた聴衆自身が論の矛盾をききわけることができるのであり、時と場合によっていろいろに論を変えるカタル派との論争ではこれは特に必要なことであった。
 北から南から、両派の説教者たちが、続々と巴旦杏の花ざかりの丘を縫ってモレアルに集まってきた。こうして、十か月来あちこちで論戦を繰り広げてきたカトリックとカタル派は、それぞれ代表者を四人ずつ出して、教会対教会という形で論争に臨んだのである。
 このような場が領主の介入なしに設けられた筈はない。むしろ、彼がこれを主催したに違いない。習慣に従って、貴族と市民の中から四人の裁定者が選ばれた。カトリック側が二人、カタル派が二人を指名したにもかかわらず、この四人が四人共カタル派の信者もしくは親派だったということは驚くべきことであり、この地方の宗教状態を示すに十分なものである。
論争は二週間続いた。まずカタル派が攻撃し、カトリック側はディエゴが受けて立った。カタル派は旧約聖書を排していたので、新約聖書のみを用いて論じなければならなかった。攻撃に答えるだけではない。問題はカトリック教会はカタル教会を異端というかの点にあるのであり、それは、神の一性、救世におけるキリストの十字架の役割り、罪、救いの性格にあった。ディエゴと共に全員が熱誠をこめて論じた。より効果的にするために、書いて論争した。即ち、まず自分の論とその論証を書き、それを用いて論じ、その後で更に証明と答えを書いた。この文書は裁定者の手に渡され、採決の為に用いられた。論争の前後のこの書き物は多くの時間を要した。

{聖ドミニコの生涯} シスター武田教子

{聖ドミニコの生涯} シスター武田教子  「イエス・キリストの説教」 Ⅰ


梅 1



 南フランス、地中海から大西洋に亙っては、ロラゲの平野が横たわっている。有史以前から、多くの民族が、この自然の通路を往来した。ツールーズとカルカッソンヌがここの重要な町で、政治的、経済的中心であったが、十二世紀には巡礼者、十字軍、また、さまざまな説教者の往き交う宗教的中心ともなっていた。
 1207年のはじめ、ディエゴとドミニコは、だいたいこの地方のローラック・ル・グラン、ファンジョー、モレアルの三つの町の周辺に居を定めるようになる。まず、この三つの町の素描をお伝えしよう。
 ローラック・ル・グランは、かつてロラゲでもっとも強力な町であった。領主は三代に亙って熱心なカタル派であり、町の中には「完全者(カタル派として完成した人とみとめられた人)の共同体」や、「完全者の合宿所(説教しながら町から町へと歩くカタル派の宣教者たちに食事や衣服を供し、宿泊させ憩わせる奉仕施設)」があった。有名なカタル派指導者がおり、その説教をきくために近郊から領主や貴族たちが集まってきていた。
ローラックから東に80キロメートルのところにあるファンジョーは、現在は、人口870人位の小村に過ぎないが、古くはこの地域の交通の要所であった。それで、ローマ人もここに住みついてジュピテルの神殿を建てている(ファンジョーの名もこれに由来する)
 中世の諸侯もここを根城ににしたが、十三世紀初頭には50家族以上の貴族がここに住み、主権は極端に分断されていた。
ローラックと同じく、ファンジョーの貴族たちも十二世紀以来カタル派に熱心で、この信仰の二代目、三代目、時には四代目信者もいた。ここにもいくつかのカタル派共同体があった。また、カタル派に改宗した婦人たちの何人もが、自分の家を、説教や儀式のために開放し、周囲の異端者がここに熱心に通ってきていた。そのうえ、ファンジョーには少なくとも二人のカタル派医者がおり、彼らは、ロラゲ全体に医者として尽くしながら同時に異端を広めていた。また、職人組合もあったので、異端者は、ファンジョーを中心としてあらゆる階層に接触することができた。それで、ファンジョーはカタル派の総本部の様相を呈していた。
 ファンジョーからカルカッソンヌへの道を八十キロ行ったところにモレアルがある。これもカタル派の一中心地であった。領主はロラゲの領主中の最強力者であり、カタル派信者で、完全者たちを保護していた。ここにもカタル派の共同体がいくつかあり、有力な指導者もいた。主だった貴族や市民は自分たちの家に説教者を招じ世話をしていた。そして、カタル派の儀式、祈り、説教には多数の者が列席していた。

[聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

[聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子 「モンペリエの会議」Ⅱ

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 異端に対して積極的に行動しない司教に代わって、法的にも勅使たちが行動できるよう、1204年5月31日以降、教皇は、三人の勅使に、二義的な使命、即ち、聖職者の矯正や罷免の裁判をも委託した。これが勅使たちの勢力の一部を費やしたとしても、決して、第一の任務、即ち対異端者の活動の上に出ることはなかった。
 勅使たちが、聖職者の改革に極端にまでも走ろうとしたとき、教皇は、確固として彼らをその本質的な任務に引きもどしている。何故なら、「耐え得る妨げのために、絶対必要な仕事をさしおいてはならない」からである。教皇は、また、この活動を、どんな精神のもとに行うべきかをも書き与えている。「あなたたちの単純率直な行動が、すべての人に明らかであり、無知な人、悪意の人の口を閉ざすものであるように」と。
 当時の対異端活動は、どのように行われたのであろうか。ひとつの例をあげよう。1204年2月のある日、領主の命令のもとに、カトリック側13人、カタル派側13人の審査員の前で、公開討論会が行われている。討論は一日中続き、翌日、領主と審査員たちは、カタル派の誤謬を宣言している。対異端者活動は、そこでとどまる。異端を、民衆の面前で明白にあらわした。それで十分である。
 しかし、改宗者は少なかった。勅使が最も失望したのは、この点であった。モンペリエの会議で、彼らは、ディエゴとドミニコに、「二年半の活動の後、殆ど何も得なかった」と打ち明けている。しかも、その原因は、自分たちの側にあると認めなければならないのであった。「聖職者たちがしっかりしていない。しかも、もし聖職者たちを矯正しようとするなら、それに時間を全部とられてしまって説教をすることができない。」こうして、一見、解決の糸口のない状況、いずれにせよ自分たちの任務を全うすることのできない状況になっていたのである。
 ディエゴ司教の答は、彼の偉大さを示す。もし、聖職者の矯正のためにエネルギーを使い果たしたとしても、まだ、対異端の直接の働きは始まっていない。大切なのは、真理を説くことであり、その説教でたりる。但し、当時の異端者が、キリストの弟子に最もふさわしいやり方として、徒歩で、二人ずつ、金銭も何も持たず、食物は托鉢しながら説教していたように、勅使たちも、騎馬で、従者をひき連れたー決して大げさなものではなかったにせよ-今までのやり方にかえて、「教会による派遣」という正統性の中で、キリストが弟子たちを派遣なさったときのように、徒歩で、金も銀も持たず、言葉に行いを合わせて説教すること、これが、ディエゴ司教のすすめであった。
 勅使たちは当惑した。そのようなことをすれば、教皇の権威が軽んじられることにならないだろうか。また、説教と托鉢の間に絶対的関係があるとする異端者の誤謬に加担することになって、民衆を混乱させないだろうか。・・・・・
 しかし、次第に彼らの心は動いていく。「もし、真に権威のある人が、まず、そのようにして、説教するなら、自分たちも喜んでそうしよう。」
 激しい気性のディエゴ司教は、既にその覚悟ができていた。彼は、すぐに従者と旅の必要品すべて、即ち、馬も荷物も全部オスマにかえし、ドミニコと二人だけになった。
 この時、ドミニコがどう感じたか、記録は何も残っていない。しかし、その後の彼の行動をみるなら、彼が心からこれを承諾し、自分のものとしていることがわかる。
 オスマ、ツールーズ、デンマーク、ローマと、十年に亙って、ドミニコは、ディエゴ司教の伴侶として、祈りも、宣教活動も、疲労も、生活のすべてを分かち合ってきた。二人の企図は、もう、わかち難いものになっていた。爾後、地上でのドミニコの生活にとって、ただひとつのことが大切となる。キリストが、ご自分のみ前に二人ずつ派遣した使徒たちを模倣した、神のみことばのよき働き手、即ち、「ことばと行いで、隣人の霊魂の真の必要にこたえ得る者となること」(ドミニコ会の最初の会憲文より)がこれである。

主のご降誕を心からお喜び申し上げます

幼子イエスのご降誕を心からお喜び申し上げます。


幼子


 永遠の父よ、みことばは人となり、世界に光が与えられました。信じる者の心に注がれたキリストの光が、日々の生活に輝くものとなりますように。(教会の祈り、主の降誕 朝の結びの祈願)

全世界でいろいろな災害が起こり、また多くの難民の方々が苦しい生活を強いられています。どうか神様 いま苦しんでいる人、悲しんでいる人の中にいてください。そして少しでも幸せをかみしめることができますように。そして幼子イエスの平和と喜びが与えられますように。 私も自分の出来る事で神様のため 人々のために奉仕できますように お祈りしたいと思います。

 どうぞ良い年をお迎えください。
プロフィール

聖ドミニコ女子修道会

Author:聖ドミニコ女子修道会
長い歴史があるキリスト教カトリックの女子修道会です。日本では、学校や幼稚園、児童養護施設でキリスト教に基づく教育をしています。また、教会、病院、黙想の家、その他でも<みことば>を伝えています。

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