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{聖ドミニコの生涯} シスター武田教子

{聖ドミニコの生涯} シスター武田教子  「イエス・キリストの説教」 Ⅰ


梅 1



 南フランス、地中海から大西洋に亙っては、ロラゲの平野が横たわっている。有史以前から、多くの民族が、この自然の通路を往来した。ツールーズとカルカッソンヌがここの重要な町で、政治的、経済的中心であったが、十二世紀には巡礼者、十字軍、また、さまざまな説教者の往き交う宗教的中心ともなっていた。
 1207年のはじめ、ディエゴとドミニコは、だいたいこの地方のローラック・ル・グラン、ファンジョー、モレアルの三つの町の周辺に居を定めるようになる。まず、この三つの町の素描をお伝えしよう。
 ローラック・ル・グランは、かつてロラゲでもっとも強力な町であった。領主は三代に亙って熱心なカタル派であり、町の中には「完全者(カタル派として完成した人とみとめられた人)の共同体」や、「完全者の合宿所(説教しながら町から町へと歩くカタル派の宣教者たちに食事や衣服を供し、宿泊させ憩わせる奉仕施設)」があった。有名なカタル派指導者がおり、その説教をきくために近郊から領主や貴族たちが集まってきていた。
ローラックから東に80キロメートルのところにあるファンジョーは、現在は、人口870人位の小村に過ぎないが、古くはこの地域の交通の要所であった。それで、ローマ人もここに住みついてジュピテルの神殿を建てている(ファンジョーの名もこれに由来する)
 中世の諸侯もここを根城ににしたが、十三世紀初頭には50家族以上の貴族がここに住み、主権は極端に分断されていた。
ローラックと同じく、ファンジョーの貴族たちも十二世紀以来カタル派に熱心で、この信仰の二代目、三代目、時には四代目信者もいた。ここにもいくつかのカタル派共同体があった。また、カタル派に改宗した婦人たちの何人もが、自分の家を、説教や儀式のために開放し、周囲の異端者がここに熱心に通ってきていた。そのうえ、ファンジョーには少なくとも二人のカタル派医者がおり、彼らは、ロラゲ全体に医者として尽くしながら同時に異端を広めていた。また、職人組合もあったので、異端者は、ファンジョーを中心としてあらゆる階層に接触することができた。それで、ファンジョーはカタル派の総本部の様相を呈していた。
 ファンジョーからカルカッソンヌへの道を八十キロ行ったところにモレアルがある。これもカタル派の一中心地であった。領主はロラゲの領主中の最強力者であり、カタル派信者で、完全者たちを保護していた。ここにもカタル派の共同体がいくつかあり、有力な指導者もいた。主だった貴族や市民は自分たちの家に説教者を招じ世話をしていた。そして、カタル派の儀式、祈り、説教には多数の者が列席していた。

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[聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

[聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子 「モンペリエの会議」Ⅱ

冬2

 異端に対して積極的に行動しない司教に代わって、法的にも勅使たちが行動できるよう、1204年5月31日以降、教皇は、三人の勅使に、二義的な使命、即ち、聖職者の矯正や罷免の裁判をも委託した。これが勅使たちの勢力の一部を費やしたとしても、決して、第一の任務、即ち対異端者の活動の上に出ることはなかった。
 勅使たちが、聖職者の改革に極端にまでも走ろうとしたとき、教皇は、確固として彼らをその本質的な任務に引きもどしている。何故なら、「耐え得る妨げのために、絶対必要な仕事をさしおいてはならない」からである。教皇は、また、この活動を、どんな精神のもとに行うべきかをも書き与えている。「あなたたちの単純率直な行動が、すべての人に明らかであり、無知な人、悪意の人の口を閉ざすものであるように」と。
 当時の対異端活動は、どのように行われたのであろうか。ひとつの例をあげよう。1204年2月のある日、領主の命令のもとに、カトリック側13人、カタル派側13人の審査員の前で、公開討論会が行われている。討論は一日中続き、翌日、領主と審査員たちは、カタル派の誤謬を宣言している。対異端者活動は、そこでとどまる。異端を、民衆の面前で明白にあらわした。それで十分である。
 しかし、改宗者は少なかった。勅使が最も失望したのは、この点であった。モンペリエの会議で、彼らは、ディエゴとドミニコに、「二年半の活動の後、殆ど何も得なかった」と打ち明けている。しかも、その原因は、自分たちの側にあると認めなければならないのであった。「聖職者たちがしっかりしていない。しかも、もし聖職者たちを矯正しようとするなら、それに時間を全部とられてしまって説教をすることができない。」こうして、一見、解決の糸口のない状況、いずれにせよ自分たちの任務を全うすることのできない状況になっていたのである。
 ディエゴ司教の答は、彼の偉大さを示す。もし、聖職者の矯正のためにエネルギーを使い果たしたとしても、まだ、対異端の直接の働きは始まっていない。大切なのは、真理を説くことであり、その説教でたりる。但し、当時の異端者が、キリストの弟子に最もふさわしいやり方として、徒歩で、二人ずつ、金銭も何も持たず、食物は托鉢しながら説教していたように、勅使たちも、騎馬で、従者をひき連れたー決して大げさなものではなかったにせよ-今までのやり方にかえて、「教会による派遣」という正統性の中で、キリストが弟子たちを派遣なさったときのように、徒歩で、金も銀も持たず、言葉に行いを合わせて説教すること、これが、ディエゴ司教のすすめであった。
 勅使たちは当惑した。そのようなことをすれば、教皇の権威が軽んじられることにならないだろうか。また、説教と托鉢の間に絶対的関係があるとする異端者の誤謬に加担することになって、民衆を混乱させないだろうか。・・・・・
 しかし、次第に彼らの心は動いていく。「もし、真に権威のある人が、まず、そのようにして、説教するなら、自分たちも喜んでそうしよう。」
 激しい気性のディエゴ司教は、既にその覚悟ができていた。彼は、すぐに従者と旅の必要品すべて、即ち、馬も荷物も全部オスマにかえし、ドミニコと二人だけになった。
 この時、ドミニコがどう感じたか、記録は何も残っていない。しかし、その後の彼の行動をみるなら、彼が心からこれを承諾し、自分のものとしていることがわかる。
 オスマ、ツールーズ、デンマーク、ローマと、十年に亙って、ドミニコは、ディエゴ司教の伴侶として、祈りも、宣教活動も、疲労も、生活のすべてを分かち合ってきた。二人の企図は、もう、わかち難いものになっていた。爾後、地上でのドミニコの生活にとって、ただひとつのことが大切となる。キリストが、ご自分のみ前に二人ずつ派遣した使徒たちを模倣した、神のみことばのよき働き手、即ち、「ことばと行いで、隣人の霊魂の真の必要にこたえ得る者となること」(ドミニコ会の最初の会憲文より)がこれである。

主のご降誕を心からお喜び申し上げます

幼子イエスのご降誕を心からお喜び申し上げます。


幼子


 永遠の父よ、みことばは人となり、世界に光が与えられました。信じる者の心に注がれたキリストの光が、日々の生活に輝くものとなりますように。(教会の祈り、主の降誕 朝の結びの祈願)

全世界でいろいろな災害が起こり、また多くの難民の方々が苦しい生活を強いられています。どうか神様 いま苦しんでいる人、悲しんでいる人の中にいてください。そして少しでも幸せをかみしめることができますように。そして幼子イエスの平和と喜びが与えられますように。 私も自分の出来る事で神様のため 人々のために奉仕できますように お祈りしたいと思います。

 どうぞ良い年をお迎えください。

「来ませ主よわれらに」

「来ませ主よわれらに」
冬3

もうすぐ待降節第三週を迎えます。
 師走も半ば、あれもこれもと多忙をきわめ、流されそうですが流されてはいけないと踏ん張って、幼子イエスの降誕を待ち望みたいと思います。
 地震、豪雨、台風・・・・・etc、次々に起こる災害に、前の災害を忘れてしまっています。目覚めて祈らなければと思いつつ、目まぐるしい日々に右往左往しています。
 至らない自分を目の前にして、それでも心の奥深くに幼子イエスさまへの希望、「主が来てくださる、どんな苦しみの中におられる方々のところにもイエスさまは来て、共にいてくださる。」という希望があります。
 出来る事をしながら、良いクリスマスを迎えたいと思います。
 皆さまも多忙の日々をお過ごしと思います。幼子イエスさまの平和と喜びがありますように心からお祈りしたいと思います。

「希望の源である神、いつもわたしたちのそばにいてくださる方、あなたのもとに集まり、キリストを待つ私たちうを、聖霊によって一つにしてください。喜びのうちに、あなたを賛美し続けることができますように。」(待降節第三主日、集会祈願より)

「聖ドミニコの生涯」シスター武田教子

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子 「モンペリエの会議」Ⅰ

巣箱⑭


1206年6月のある日、少数の騎馬の一団がモンペリエに着いた。オスマのディエゴ司教の一行である。ローマをたった一行は、シトーに行き、そこでディエゴ司教は白い修道服を受け、今、その帰路、ここに立ち寄ったのである。オスマの司教座参事会副院長で、司教の貴重な伴侶、ドミニコも、勿論その中にいた。他に、オスマ教区の司祭数人、シトーから同伴してきた修道士数人、召使と、荷物を積んだ馬が、その一行を構成していた。次第次第にカタル派の勢力が強まる南仏の中で、モンペリエの町は、カトリックにとって、ほっと一息つける場、平和の場だった。
 町に入ると間もなく、一行は、シトー会修道士たちの集会に出会う。対異端活動の頭として教皇から勅使に任命されている、シトーの院長のアルノー・アモリイを中心に、同じくシトー会修道士で、フォンフロワド修道院所属であり、やはり勅使の任命を受けているピエール・ド・カステルノーとラウル、およびフォンフロワドの他の多くの修道士たちが、そこに集まっていた。
 ディエゴ司教は、教皇から何らかの使命を受けて、そこに来合わせたのであろうか。それはわからない。とにかく、勅使に対するローマからの指令は、可成り頻繁に届いていた。1204年から1207年の期間だけでも教皇からのこの種の文書三十通位が現存している。これは、当時の交通の便を示すと共に、この活動に対する教皇の非常な関心を示すものである。
 ところが、現実は、なかなか教皇の期待通りにはいかなかった。勅使たちの善意と努力にもかかわらず、いろいろな試みはあまり効果をあげなかった。しかも、彼らは、特に、ナルボンヌの大司教への対処の仕方について、教皇が自分たちを理解していないと感じて勇気を失い、実りのないこの仕事をあきらめかけていた。そこへ、ディエゴ司教の一行が来合わせたのである。
 南仏とカスチリアは遠くはない。勅使たちは、学、徳、行動力、共に優れたディエゴ司教の名声を聞き及んでいた。彼らは、司教に助言を求める。
 ここで、ちょっと、勅使たちの活動に触れておこう。ピエール・ド・カステルノーは勅使として最も古い。辞令は紛失しているが1203年12月13日には、既に勅使として活躍しているから、同年10月か11月の任命であろう。彼は、教会法にくわしく、容赦なく、且、巧妙に、異端に対するラテラノ公会議の決定を適用していく。異端を壊滅させるには、決定的な手段をも辞さなかった。しかし、教皇の態度は、これと違っていた。時のインノセント三世教皇は、常に司牧者の態度を持し、勅使に宛てた手紙の中で、勅使の勤めを一言で言い表すときは、「みことばの役務と、教義を説くことに献身する」と言っている。ピエール・ド・カステルノーが、活動の効果があがらないので落胆していたとき、教皇は、彼に、次のように書き送っている。「心を尽くしてあなたの役務、即ち、福音を告げる者として務めを果たしなさい。即ち、忍耐と、教義の明瞭さを以って、時があろうとなかろうと、論証し、嘆願し、論駁しなさい。」

プロフィール

聖ドミニコ女子修道会

Author:聖ドミニコ女子修道会
長い歴史があるキリスト教カトリックの女子修道会です。日本では、学校や幼稚園、児童養護施設でキリスト教に基づく教育をしています。また、教会、病院、黙想の家、その他でも<みことば>を伝えています。

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