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「来ませ主よわれらに」

「来ませ主よわれらに」
冬3

もうすぐ待降節第三週を迎えます。
 師走も半ば、あれもこれもと多忙をきわめ、流されそうですが流されてはいけないと踏ん張って、幼子イエスの降誕を待ち望みたいと思います。
 地震、豪雨、台風・・・・・etc、次々に起こる災害に、前の災害を忘れてしまっています。目覚めて祈らなければと思いつつ、目まぐるしい日々に右往左往しています。
 至らない自分を目の前にして、それでも心の奥深くに幼子イエスさまへの希望、「主が来てくださる、どんな苦しみの中におられる方々のところにもイエスさまは来て、共にいてくださる。」という希望があります。
 出来る事をしながら、良いクリスマスを迎えたいと思います。
 皆さまも多忙の日々をお過ごしと思います。幼子イエスさまの平和と喜びがありますように心からお祈りしたいと思います。

「希望の源である神、いつもわたしたちのそばにいてくださる方、あなたのもとに集まり、キリストを待つ私たちうを、聖霊によって一つにしてください。喜びのうちに、あなたを賛美し続けることができますように。」(待降節第三主日、集会祈願より)

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「聖ドミニコの生涯」シスター武田教子

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子 「モンペリエの会議」Ⅰ

巣箱⑭


1206年6月のある日、少数の騎馬の一団がモンペリエに着いた。オスマのディエゴ司教の一行である。ローマをたった一行は、シトーに行き、そこでディエゴ司教は白い修道服を受け、今、その帰路、ここに立ち寄ったのである。オスマの司教座参事会副院長で、司教の貴重な伴侶、ドミニコも、勿論その中にいた。他に、オスマ教区の司祭数人、シトーから同伴してきた修道士数人、召使と、荷物を積んだ馬が、その一行を構成していた。次第次第にカタル派の勢力が強まる南仏の中で、モンペリエの町は、カトリックにとって、ほっと一息つける場、平和の場だった。
 町に入ると間もなく、一行は、シトー会修道士たちの集会に出会う。対異端活動の頭として教皇から勅使に任命されている、シトーの院長のアルノー・アモリイを中心に、同じくシトー会修道士で、フォンフロワド修道院所属であり、やはり勅使の任命を受けているピエール・ド・カステルノーとラウル、およびフォンフロワドの他の多くの修道士たちが、そこに集まっていた。
 ディエゴ司教は、教皇から何らかの使命を受けて、そこに来合わせたのであろうか。それはわからない。とにかく、勅使に対するローマからの指令は、可成り頻繁に届いていた。1204年から1207年の期間だけでも教皇からのこの種の文書三十通位が現存している。これは、当時の交通の便を示すと共に、この活動に対する教皇の非常な関心を示すものである。
 ところが、現実は、なかなか教皇の期待通りにはいかなかった。勅使たちの善意と努力にもかかわらず、いろいろな試みはあまり効果をあげなかった。しかも、彼らは、特に、ナルボンヌの大司教への対処の仕方について、教皇が自分たちを理解していないと感じて勇気を失い、実りのないこの仕事をあきらめかけていた。そこへ、ディエゴ司教の一行が来合わせたのである。
 南仏とカスチリアは遠くはない。勅使たちは、学、徳、行動力、共に優れたディエゴ司教の名声を聞き及んでいた。彼らは、司教に助言を求める。
 ここで、ちょっと、勅使たちの活動に触れておこう。ピエール・ド・カステルノーは勅使として最も古い。辞令は紛失しているが1203年12月13日には、既に勅使として活躍しているから、同年10月か11月の任命であろう。彼は、教会法にくわしく、容赦なく、且、巧妙に、異端に対するラテラノ公会議の決定を適用していく。異端を壊滅させるには、決定的な手段をも辞さなかった。しかし、教皇の態度は、これと違っていた。時のインノセント三世教皇は、常に司牧者の態度を持し、勅使に宛てた手紙の中で、勅使の勤めを一言で言い表すときは、「みことばの役務と、教義を説くことに献身する」と言っている。ピエール・ド・カステルノーが、活動の効果があがらないので落胆していたとき、教皇は、彼に、次のように書き送っている。「心を尽くしてあなたの役務、即ち、福音を告げる者として務めを果たしなさい。即ち、忍耐と、教義の明瞭さを以って、時があろうとなかろうと、論証し、嘆願し、論駁しなさい。」

「聖ドミニコの生涯」シスター武田教子

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子 「デンマークへの旅」 2

年代3

  しかし、当面は、ドミニコは、デンマークへと旅を続ける。この先の旅路については、何も記録は残っていない。デンマークでの使命は成功し、ディエゴ司教は、当時の習慣に従い、代理権を行使して結婚を成立させ、再び難儀の多い旅の果てに、オスマに帰り着いた。
 交渉の成功を喜んだカスチリア王は、王子が十五才(成人)となるのを待って、再びディエゴ司教に、デンマークから姫をお連れする使命を託した。ディエゴは前回と同じくドミニコを連れ、多分、使命にふさわしく、前回よりも華やかな装いの一行を伴って、恐らく1205年夏、再びデンマークへと赴く。
 ところが、「姫は、その間に亡くなっていた」と古い記録はいう。
 ところで、スカンジナビアに、最近明らかになった二つの興味深い資料がある。
 ひとつは、1204年から1206年の間に、オルラムンドの伯爵が、二人の娘に修道院に入ることを許可し、ホウスドルクの修道院に持参金を納めたというものである。もし、件の姫が、オルラムンドの伯爵の娘であるとするなら-そうである可能性が高いのだが-伯爵には何人も娘がいて、三人も同時に身の振り方をきめさせたかったのであろうか。
 もうひとつの資料は、二人の内一人は、カスティリャ王子の妃にと予定されていた姫ではないかと推測させるに足るものである。即ち、この頃、デンマークの首座教会であったルンドの大司教が、困難な結婚問題にぶつかっていた。彼の権限下にある高貴な一婦人が使節を介して外国の貴人と、言葉の約束で結婚していた。しかし、六カ月後、彼女は、その夫となるべき人がらい病であると聞いたので約束を破棄したいと思った。そこで、この結婚を回避するために修道院に入ることを決意し、修道院も彼女を受け入れた、というのである。
 勿論、カスチリア王子はらい病ではなかった。しかし、当時の法律に従えば、言葉のみで成立している結婚の場合、らい病は離婚を有効にした。
 では、このような行動に出た姫の動機は何だったのであろうか。当時の事情を考えれば、理解は困難ではない。彼女の叔母に当たるインゲボルグは、十二年前、フランス王、フィリップ・オギュストと結婚するために、はるばると旅して異国に赴いたが、結婚の翌日離婚されて、言葉も知らないその国で、修道院に監禁の憂き目にあっている。そんな目にあう位なら自分の国で修道院に入ってしまう方が余程ましではなかろうか。
 とにかく、「姫は亡くなった」ということで、ディエゴ司教は、王の使者としての勤めから解放されることになる。彼は、王に姫の死亡を知らせる使者を送り、自身は、ドミニコを伴ってローマに赴き、冬をそこで過ごす。
この時、ディエゴは、オスマの司教座を退いて、北方の異民族のところに宣教に行く許可を教皇に願っている。いつも司教と行動を共にしていたドミニコも、この同じ望みを抱いていたであろうことは、想像に難くない。後年、ドミニコが、やっと組織らしいものができたドミニコ会を、兄弟たち(ドミニコ会員は、互いを兄弟と呼ぶ)の手に委ねて、自身は、北方の異教徒への宣教に出かけようとしたことも、これを裏付ける。しかし、教皇は、これを許さなかった。
 カスチリア王が司教に託した使命は失敗に終わった。しかし、神のご計画は、これらすべての中にまっすぐに進められていく。カタル派との出合い、北方の異教徒との出合いの中で、ディエゴ司教とドミニコの、使徒としての精神は、次第に燃え上がる。カスチリアの世界を越えて、彼らの宣教の畑はひろがっていく。
 北方への宣教を許可しなかった教皇は、彼らに、南仏でのひとつの重要な使命を託したのであろうか。あるいは、次におこる出来事は、偶然なのであろうか。とにかく、1206年春、アルプスを越えてカスチリアへの道を辿るかにみえたディエゴ司教の一行は、南仏で、対カタル派の説教団のただ中に置かれることになる。
 

「聖ドミニコの生涯」シスター武田教子

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子 「デンマークへの旅」1

18 9 朝焼け


 1203年5月、カスチリア王のアルフォンソ八世は、王妃と王子を伴って、オスマのすぐそばの町まで来た。王子はこの時十三才で、王のただひとりの息子、王位継承者であった。
 王の一行は、5月13日、ソリヤの一女子修道院の創立を認可して引き上げる。しかし、ただそれだけのために王の一行がここまで来たとは考えられない。
 ドミニコの最も正確な伝記作家であり、ドミニコの後を継いで会の二代目総長をとなったジョルダン・ド・サクスは、その時、王は、オスマの司教ディエゴ(マルチノ司教の没後、ディエゴが後を継いでいた)に、自分の息子の妃として、デンマークの貴族の姫君のひとりを迎えるための使者となるよう、依頼に来たのだという。事実、司教は間もなくデンマークに向けて旅だつ。司教はこの旅行にドミニコを伴う。
 当時の複雑な政治事情にはここでは触れない。しかし、司教座参事会員として、日々聖書に親しみ、典礼生活にいそしみ、祈りと勉学に余念のなかったドミニコの生活を突然変えたこのできごとが、次第にドミニコにその使命を示していくことになる。
 この長途の旅行は、なかなかきびしいものであった。黒い合羽に身を包み、馬に乗ったドミニコは、同じく馬上の司教の後に続き、通訳、道案内、をする商人、そして多分、王がつけてくれた数人の護衛の騎士たちと共に北上したことであろう。
 一行は、恐らく、旧ローマ街道を通って、ソリヤ、サラゴッサ、ハカ、ソンポール、オルロン、モルラアス、と進み、ツールーズに入ったに違いない。
 ピレネー山脈を越えてフランス領に入った途端、ディエゴ司教とドミニコは、それまで噂に聞くだけであった謬説が蔓延しているありさまを目のあたりにした。謬説にはいろいろあったが、中でもカタル派と呼ばれるものが、非常な勢いで広がっていた。ツールーズ伯爵領は、特にそれがひどかった。
 南仏のカタル派は、強力な組織を持ち、個々の説教者はつつましい生活をし、菜食主義で、道徳的にも申し分なかったので、人びとの尊敬を集め、多くの聴衆をひきつけていた。
一行が、ツールーズで宿をとったとき、計らずも、ドミニコは、カタル派と対決することになる。ツールーズでの宿主自身が熱心なカタル派であったのだ。
 一見、キリスト者のようにみえるカタル派は、その実、二元論で、霊と物質とを対立させ、福音書の神を善い神とし、旧約聖書の神を悪い神として対立させる。そして、善である霊は、きびしい修練によって、悪である物質(体)から解放され、最後に死によって自由になるが、完全に開放されない場合は再び物質と合体し、動物とることもあり得るという。このように、カタル派は、外見上は福音書を尊び、キリスト信仰を装っているが、実質は全く異なる。彼らの説によれば、善い神であるキリストは、悪である物質と合体することはできないので、キリストの体はみせかけであり、同じくその死もみせかけである。
それなら、キリストは、人と神とを結ぶかたではなく、救い主ではないということになる。勿論復活はない。しかも、物質である体を再生していく結婚、出産は悪である。体を保つために食事をすることも悪である・・・しかしこの悪を避けることはできないとなれば、これは道徳的頽廃へとつながる。その上、キリスト教とカタル派との間の争いによって、人びとは、暴力、破壊、飢、貧困にさらされていた。
 ドミニコは、その宿主がカタル派と知ると夜を徹して彼と語り明かす。どのように語り合ったのであろうか。ひとつだけ言えることは、ドミニコは、決して一方的にきめつけるような話し方はしなかったということである。
 ドミニコは、相手を打ち負かそうとしてではなく、自分が確信するところを相手に伝えようとして話す。熱烈ではあったが、決して威嚇的ではなかった。これは、ドミニコの一貫した姿勢であった。「誤謬を正すのは、真理を説くことによってである。」彼は、宿主にその論の矛盾を示す。あい対立して二つあるようなものは神ではない・・・ドミニコの熱のこもった、心からの論は、遂に宿主の心を動かし、夜が明けそめる頃、宿主はカトリックにたちもどる。
 一睡もしなかったツールーズを発って旅を続けるドミニコの心中は、どのようなものであったろうか。この一夜が、彼の生涯に大きな意味を持ったことは確かである。三年後には、ドミニコは、自分のすべてを賭けて対カタル派の活動をすることになり、十年後には、このツールーズに、ドミニコ会の最初の礎を置くことになるのである。

「聖ドミニコの生涯」 シスタ-武田教子

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子 「オスマの参事会員」 3

夏1


 教会改革の仕事を進めるに当たって、最大の壁は、司祭たちの無知と生活の乱れであった。とすると、何故ディエゴがドミニコをオスマの司教座参事会にさそったかがうなずけるであろう。彼こそは、まさに、この改革の大事業の最も良き協力者となる者だったのである。
 オスマの司教座参事会は、聖アウグスチヌスの戒律を採用していた。これは、聖アウグスチヌスが、共同生活を営む婦人たちに与えた、味わい深い種々の勧告を含む手紙であるが、次のようにはじまる。「あなたがたは、共に集まっているのであるから、あなたがたの家でひとつ心で生きなさい。何物も自分の物とは言わず、すべてを共有にし、長上が各人に食物や衣服を分配しなさい。しかし、皆が同じ健康状態ではないのだから、皆に平等に分けるというのではなく、各人の必要に応じてわけなさい。使徒行録に、『かれらはすべての物を共有にし、おのおの必要に応じて分配していた』と書いてあるのはこのことである。」
 テキストを見てわかるように、この戒律を採用するということは、初代教会の使徒たちが理想としていた、その同じ生き方をしようということである。そして、当時の教会にあって、「初代教会にかえり、使徒たちの生活にならおう」の語は、教会改革の合いことばであり、心を天にあげる叫びであった。
 「参事会員の中で、ドミニコは、すぐに明星のように輝き出した。彼はもっとも謙遜でもっとも聖なる者であった。その見事な霊の飛翔に誰もが目をみはった。」と伝記はいう。ドミニコは、この新しい生活の始めにあたって、カシヤンの「砂漠の師父たちの説教集」を愛読する。こうして内的生活を深めると同時に、司教座聖堂での聖務日課-参事会員本来の役目ーに熱心にはげむ。使徒たちも、エルサレムの神殿で毎日祈っていたではないか(使徒言行録2・46)。彼は生涯の終わりまで聖務日課を愛し、ここに力と喜びを汲む。
ドミニコは、司教座参事会員として誓願を宣立して後、間もなく司祭になる。彼は25才になっていた。司祭となるための最低年齢である。司祭!今やドミニコは、ミサを捧げること、説教することができるようになったのである。一一九九年八月十八日付の文書では、彼は香部屋係り、即ち、司教座聖堂の典礼生活の責任者になっている。そして、二年後の一二〇一年一月十三日には、28才ないし30才の彼は、参事会の副院長であった。
 ドミニコは、今や、あらゆる意味で使徒となっていた。使徒の生活をするとは、人びとにキリストを与えることに自らを与え尽くすことである。ドミニコのひそかな祈り、「人びとに救いを得させる為に一生懸命に働く真の、そして効果的な愛をお与えください。」は行動に移され始めた。
 しかし、神は、ひそかに、よりすばらしい畠を準備しておられた。
プロフィール

聖ドミニコ女子修道会

Author:聖ドミニコ女子修道会
長い歴史があるキリスト教カトリックの女子修道会です。日本では、学校や幼稚園、児童養護施設でキリスト教に基づく教育をしています。また、教会、病院、黙想の家、その他でも<みことば>を伝えています。

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