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「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

「推薦書」 Ⅲ

あわ雪1



 或日のこと、旅に疲れた二人の修道者がドミニコのもとにやってきた。ドミニコは予期しない訪問に驚く。彼らは、スペインに派遣された会員であった。説教に失敗し、落胆して、ドミニコのもとに帰ってきたのであった。スペインに派遣された四人のうち、二人は成功したが、彼らは何もできなかったのだ。説教には失敗し、日々の托鉢では大きな侮辱を受けたのであろうか。勇気を失ってしまった彼らは、創立者のもとに帰ってきたのである。
 ドミニコは人間を知っていた。過去の失敗にこだわり、嘆いたり慰めたりすることに時間を費やすときではない。さあ、再出発して、他所で成功しなければならない。ローマには修道院はなく、ドミニコも長く留まっているつもりはないので、二人はここですることがない。そこで、ドミニコは、この二人の兄弟をボローニャに送る。「そこに行っていなさい。もうすぐ自分も行くから。」いささか煙にまかれた二人は、ボローニャに向かう。
 四月、今度はパリから二人の兄弟がローマにやってきた。この二人、というか、一人、ベルトランは、ドミニコが待っていた人である。しかし、もう一人、ジャン・ド・ナヴァルは、まだパリで神学を勉強をしている筈だったではないか。きっと、まただだをこねたので、院長は、少し気分をかえさせるために、伴侶としてつけてよこしたのであろう・・・
 パリに行った兄弟たちは、秋から始まる大学に間に合わせる為に大いそぎで、大司教館の門前のノートル・ダム病院のそばの、貧しい一軒の家を借りた。即ち、兄弟たちは、パリのど真中、神学部のあるノートルダム回廊の向かいに 居を定めたのである。
 しかし、家を借りたので、家賃を払わなければならない。何も持たないドミニコの兄弟たちは、その家賃を乞い歩かなければならなかった。
 「托鉢」ということは、当時のカトリック界には馴染まないものであった。「聖職者が托鉢するのは、主をはずかしめることになる」と考えられていた。福音を生きる基本としてドミニコが選んだ貧しさは、皆に受け入れられるものではなかった。
 こんな中に、二月十一日付の教皇からの推薦書が、パリの司教のもとにとどけられる。
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「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

「推薦状」 Ⅱ

新年


 ローマで、ドミニコは、再びウゴリン枢機卿を訪れる。ウゴリン枢機卿は、会の確認のとき、仲介役をしてくれたのであったが、二人の関係は、単にそれだけにとどまらず、深い信頼に結ばれていた。ホノリウス三世が亡くなって、ウゴリン枢機卿がグレゴリオ九世の名のもとに教皇座を継ぐや否や、(1227年)、六年間とまっていた推薦状の交付が再開されたことは、よくこれを示している。
 ウゴリン枢機卿は、当時の枢機卿の中で、最大の実力者であった。老年の教皇が、十字軍と宣教地に、ありたけの力を注いでいるとき、ウゴリン枢機卿は、インノセント教皇時代からの重大問題、政治問題、信仰と平和の問題、修道会の問題を双肩に荷なっていた。彼はドミニコ会が、正統説教のすばらしい道具であることを認める。そこで、ドミニコを教皇のもとに導き、精一杯擁護する。また、推薦書を作成するのに尽力する。
 1215年以来ドミニコが望んでいたことは、こうしてすべて実現し、教皇からの推薦書まで得た。しかし、これで兄弟たちは司教に快く受け入れられ、支持されたであろうか。そう思うのはあまりにも早計であろう。間もなくドミニコが、スペインから、パリから、ツールーズから受けるニュースは決して楽観的なものではなかった。

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

「推薦書」Ⅰ
 
秋のみ岩切2


 良い農夫のように、ドミニコは説教者の種子を播いた。今はこれが芽を出し、成長する時である。ドミニコは、これを、ただ待つのではなく、彼らの為の支持を得ようとしてローマに赴く。1217年12月半ばである。
 この旅行の道中についてはわかっていないが、ツールーズ付近を12月13日後に出発し2月11日の前にローマに着いている。普通、この道程にかける倍の時間である。途中、どこに寄ったのであろうか。ミラノに寄ったという説もある。ボローニャに寄ったという説もある。後者はおおいにありそうなことである。ボローニャはキリスト世界第二の学都で、教会法およびローマ法の中心であった。多くの学生が集まっていること、教授たちが、カトリック国の宗教生活、政治生活に大きな影響力を持っていること、地理的に教皇領とヨーロッパの国々との結び目に位置すること等から、ボローニャがドミニコを惹き付けない筈がなかった。
 町の北方、マスカレルの聖マリア教会のそばに、スペイン人巡礼者の為の簡易宿泊所があった。少し後で、ドミニコの仲間たちがその傍に居を構えるのを見ると、ドミニコは、まずその宿泊所に住んで、自分と同国人であるスペイン人の間に仲間を募ったのではなかろうか。法律を学ぶ学生には教会内でも世の中でも、高い地位、多くの収入のある未来が約束されていた。その学生たちを、キリスト者本来の役割り、緊急課題である神学と使徒職に呼びもどそうというのである。
 この短期間滞在中に、既に誓願を立てた者もいるようである。ボローニャの修道院の最初の院長にリシャールという兄弟の名が記されている。彼は他所から来た人ではなさそうである。もうひとり仲間がいたかもしれない。この小さな核をここに置き、間もなくもっと仲間を送ることを約束して、ドミニコはローマに向う。
 ローマに着くとすぐ、ドミニコは教皇に会う。十四か月前、彼が会をツールーズに根づかせようとしていたとき、教皇に願った支持は、会とその目的である説教、それに伴う特典の確認であった。今、兄弟たちを、当時はやりの使徒的説教者とまぎらわしい、疑いの目でみられるような姿で各地に散らしたとき、最初の疑念を晴らすのに、教皇からの推薦書が、この上ない支えとなるであろう。ホノリウス教皇は快くこの願いに応じる。1218年2月11日、事務局から最初の推薦書が交付されている。説教者会の兄弟は、すべての人に、無償で、忠実に神のみことばを宣べ伝えるものであるから、司教たちは、彼らのすばらしい目的が達せられるように協力し、日々の生活を保証してやるようにという内容のものである。
 この推薦書は、これから三年間にわたって、説教者兄弟の行くところ、ヨーロッパ各地どこにでも降り注ぐ恵みの雨の最初の一滴である。七世紀半経って、多くの資料が失われ、或は忘れ去られた現在でも、1218年から1221年にかけて出されたこの種の推薦書、三十通以上が保存されている。
 1221年半ば、ドミニコの死以降、ホノリウス教皇の治世の終わりまで、この恵みの雨はぴたりととまってしまうことを見ると、推薦書の発案者は、会の創立者ドミニコであったことがわかる。この三年の間も推薦書の出方は不規則で、ドミニコの活動を追っている。即ち、新たな修道院創立活動がある時期にこの種の手紙が集中している。1218年のはじめ、1219年の終わり、そして1221年の前半である。1220年には皆無に等しいが、この年は、ドミニコが、会の組織強化に力を注いだ年である。

 「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

「播けば実を結ぶ」Ⅳ

北秋


 南仏の状態は悪化の一途を辿っていた。今や、カタル派とカトリックというよりも、南北フランスの政治的対立となっていた。
 ローマでの計画を実行に移すときがきた。春の終わり、多分聖霊降臨祭(この年は五月十四日)であろうか、ドミニコは全兄弟をサン・ロマンに集め、総会議を開く。そして、建築がやっと終わったばかりのサン・ロマン修道院に、これから共に住もうとしている兄弟たちを前に、彼らをあちこちに散らす決心を告げる。 
 一同は、この思いがけないことばに驚愕し、あまりにもはやまった決心ではないかというが、ドミニコの決意は固かった。ドミニコの聖性と権威は皆の認めるところであったので、大多数の者はドミニコの決定に承服し、早くも未来に目を転じた。
しかし、皆が皆賛成したわけではない。フルク司教司教をはじめ、ドミニコの友人や援助者もこの決定に驚いた。彼らにとって、この企ては全く無謀なもの、折角設立された会も、ツールーズで成果をあげはじめた説教も、破壊してしまうものとみえた。しかし、ドミニコは、「反対しないでください。私は自分が何をするのかを知っています。」と答え、兄弟たちには、必ず成功するから恐れないようにという。
 1217年8月15日、兄弟たちは、最後にもういちど集まる。場所は記録に残っていないが、サン・ロマンかプルイユのどちらかであったことは確かである。種子が播かれる時が来た。全員が一堂に会することは、もうないであろう。
 一番大きなグループ、七人が、大学の町、神学の首府であるパリに会を広げる使命を、或者は、パリで勉強する使命を受けて出発する。四人はスペインへ向う。ツールーズ生まれの何人かはツールーズに残って、ここで説教を続ける。
 あとに残ったドミニコは、ツールーズでの説教活動と、サン・ロマンをめぐる問題処理にしばらく時間をとる。
 九月、ドミニコはフルク司教との連絡のため近くの町に行くが、その二日後、ツールーズの町に暴動がおこり、ドミニコはもう、町に残った兄弟たちと連絡をとることができなくなる。
 1217年12月の半ば、十字軍の総指揮官、シモン・ド・モンフォールに別れを告げたドミニコは、四度、ローマに向う。

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

「播けば実を結ぶ」 Ⅲ

枯草


 教皇の側近に、ウゴリン枢機卿という勝れた人物がいた。ドミニコは、ローマに滞在するときはよく彼の許を訪れた。或日、ドミニコは、そこで、ギョーム・ド・モンフェラという若い司祭に出合う。この二人の友情は急速に高まり、意気投合して、北方で、まだキリストが知られていない国々で宣教しようと熱意を燃やす。しかし、ギョームは、自分の知識がまだ十分でないことを認める。そこで二人は次のような約束をする。・・・・・・ギョームはすぐパリに行き、二年間神学を勉強しよう。その間、ドミニコは設立されたばかりの会の基礎を固めよう。二年後、二人はいっしょに北方の異民族のところに宣教に出かけよう・・・・・・。「この頃からドミニコは髭をはやしはじめた」という記録がある(当時異民族の中に宣教に出かける宣教師は、髭を生やす習慣であった)。
 こうしてローマでの滞在は、ドミニコの目を、カタル派の異端の地をこえて、世界に開かせた。ドミニコの胸中には、大きな変化がおきていた。
 教皇謁見を待つ間、ドミニコは祈りのうちにこの変化を熟させていた。この間に、また、彼が牢獄や女子修道院を訪問したことが記録に残っている。当時彼に出合った人はみな、彼が本当に祈りの人として、神からの光や助言を与えてくれたと語っている。また、この頃、ドミニコは、大木が倒れる幻を見て、南仏の十字軍の総指揮官、シモン・ド・モンフォールの最後が近いことを悟ったといわれている。
 もうひとつ、ドミニコの心中におこったことを伝える記録がある。「神の僕、ドミニコが、聖ペトロ大聖堂で祈っていると、神の手が彼の上に置かれた。ドミニコは、ペトロとパウロが栄光に包まれて現れるのを見た。ペトロは彼に杖を、パウロは書物を渡した。そして二人は言った。『行って説教しなさい。神はあなたをこの役務のために選ばれたのだから。』その瞬間、ドミニコは、兄弟たちが二人ずつ組になって、人びとに神のみことばを告げる為に、世界中に散って行くのを見た。」ペトロとパウロは、教会の中心の象徴である。ツールーズを中心としていたドミニコと兄弟たちの活動は、今や教会全体のものとならなければならない。
 記録は続く。「そこでツールーズに帰ったドミニコは、まだ少人数であったにもかかわらず、兄弟たちをあちこちに散らした。何故なら、彼は、良い種子は播けば実を結ぶが、積み重ねておけば腐ることを知っていたからである。」対カタリ派の福音説教使徒共同体を、南仏にしっかりと築く意図でローマに来たと思われるドミニコは、世界規模の構想と、それを実現に導く手段をもってローマを出発する。
 三月のはじめ、ドミニコはツールーズに帰り、兄弟たちを集めて総会議を開く。そこで、ドミニコは、ローマ聖座からの会の確認の教書と、一月二十一日の手紙を読み上げた。兄弟たちの喜びが想像できる。

プロフィール

聖ドミニコ女子修道会

Author:聖ドミニコ女子修道会
長い歴史があるキリスト教カトリックの女子修道会です。日本では、学校や幼稚園、児童養護施設でキリスト教に基づく教育をしています。また、教会、病院、黙想の家、その他でも<みことば>を伝えています。

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