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「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

「ローマからビテルボへ」 Ⅲ

藤 22


 兄弟たちは、人びとに説教をし、説教の合間には聖務日課を唱え、祈った。ドミニコは、教会での説教に加えて、修道女への説教や話し合いもはじめていた。
 サン・シクストのすぐそばにある、サンタ・マリア・イン・テンプロと呼ばれる女子修道院には、改革の対象となっている修道女のグループが住んでいた。他にも修道女の共同体があり、また、離れ離れに住んでいる修道女もいた。ドミニコは彼女たちに接し、感化し、勧告を与え、指導する。それぞれの長上たちとも話し合う。まず第一に、プルイユに創立者グループを派遣するように命令する前に、現実的に可能性があるかどうか、善意がどこまでかを見なければならない。また、彼女たちを受け入れる修道院の完成を待たなければならない。今回は、ドミニコはローマにそう長くはとどまっていられないので、もしプルイユに修道女の派遣を命じても、彼女たちが到着するときには、彼はもうローマには居ないであろう。故にこのことはもう少し先に延ばさなければならない。
 一か月半の後、ドミニコは大体状況を把握することができた。兄弟たちの修道院も堅実で、ローマの町での活動も軌道に乗ってきた。ドミニコは彼らを残してビテルボに向う(聖座は当時ビテルボに移っていた)。ローマ滞在中に、各地の修道院からの報告も届いた。会の組織の新段階を準備しなければならない時になった。
 ビテルボへの旅行の途中で、ドミニコは病魔に襲われた。ローマでも一度病気に罹っていた。その時の病気は何であったかわからないが、今回は赤痢であった。ツールーズ時代にも彼は病気に苦しめられていた。「彼はしばしば非常な痛みに襲われ、彼の仲間が彼を寝台に寝せなければならない程であった。しかし、彼はそこに長くは留まっておらず、すぐに床(ゆか)に寝るのだった」と、ドミニコを宿泊させていた家の婦人は証言している。ツールーズ時代は、まだ体力も旺盛であった。今は力も劣えている。休まなければならない。
 体力の劣えも不思議ではない。十二年間に及ぶ絶え間ない説教行脚に続いて、この二年間は、殆ど毎日、四十キロメートルから五十キロメートルを裸足で歩き、食事も不規則で、それもしばしば乞食がもらうようなパンだけであった。夕方は、無宿者でごったがえす簡易宿泊所に行くが、すぐに寝に就くのではなく、教会に祈りに行った。そして、どうしても睡魔に勝てなくなるとやっと、服を着たまま、わずかばかりの藁を敷いた床(ゆか)で眠るのであった。
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「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

「ローマからビテルボへ」 Ⅱ

弘前



 1220年のはじめ頃のドミニコの行動についての記録は少なく、特に、権威ある資料は皆無である。ただ、オルヴィエトのコンスタンチノが、この時期のことと思われる奇跡を二つ伝えている。
 ひとつは、修道院改築中におこったこととされる。
 「兄弟たちは、ローマに来て間もなかった。人びとは、まだ疑惑の目で彼らを見ていた。彼らの真の生活はまだ知られておらず、悪口が囁かれていた。ところで、この建築作業の時、昔の建築の石などが重なっていた基礎の一カ所に思いがけない穴があって、土くずれがおきた。兄弟たちが雇った建築技師が穴に落ち、うまってしまって、なかなか救い出すことができず、やっと掘り出したときは、彼は既に死んでいた。兄弟たちはどうしてよいかわからなかった。そして、自分たちの協力者が秘蹟も受けずに死んでしまったことを嘆き悲しんだ。迷信深いひとたちがこれをみて、説教者たちは神から罰せられたと考えるのではないかと恐れた。しかし、ドミニコは、祈りによってこの技師を生命に呼びもどすことを得、すべての人を慰めた。」
 もうひとつは、創立間もない修道院での出来事として伝えられる。
 「創立された修道院は、周囲に光を放ちはじめた。当時入会した兄弟の中に、ジャック・ド・メルという人がいた。彼はローマ人で町では知られた人だった。彼は修道院の会計係りになった。未知の土地で托鉢の修道院を開くに当たって、このように、、その土地で知られた人がいるということは、まことに好都合なことであった。ところがこの兄弟が病気になった。病は進み、死期は迫ったかに見えた。悲嘆にくれた兄弟たちが彼の床を囲み祈っているのを見たドミニコは、エリゼオがしたように、兄弟たちを外に出し、死に瀕していた兄弟の上に伏した。そして、彼の祈りの力により、既に去ろうとしていた生命をとりとめた。そうして後、兄弟たちを呼び戻し、再び彼を会計係りに任じた。」この兄弟自身が一二四三年か四四年のローマの管区会議の折に兄弟たちにこの話をし、それを聞いたオルヴィエトのコンスタンチノがこれを記したということである。
 伝えられた逸話は少ないが、ドミニコと兄弟たちの活動はわかっている。彼らは徹底的な清貧を実行した。ドミニコは、サン・シクストに、最初から、修道院として托鉢制を敷き、これを他の修道院にも及ぼそうとした。

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

「ローマからビテルボへ」 Ⅰ

鶴  
                                              ウクライナに平和を!


 1219年の終わりに、ドミニコと兄弟たちは、改築されたサン・シクストの教会を教皇からもらい受けた。あとは、修道院を建てる仕事が残っていた。
 ドミニコは、既にサン・シクストに住んだことがあったであろうか。それはありそうなことに思えた。1215年、1216年から17年にかけてと1218年にドミニコはローマを訪れているが、その時どこに滞在したかはわかっていない。教皇が、ご自分に所属し、だいぶ前から司祭がいないこの教会にドミニコを住まわせたということは、ありそうに考えられる。しかし、これを証明する資料はない。ただ、1218年には、まだローマに説教者の修道院は設立されていなかったということは推測される。何故なら、ローマで仲間に加わろうとした兄弟たちを、ドミニコはみなボローニャに送っていたからである。
 1219年12月、ローマに到着するとすぐ、兄弟たちは教会のそばに住み、聖座の費用による修道院の建築が始まった。これは、ドミニコが建てた三つ目の修道院である。この修道院は、今日ではごく一部しか残っていない。教会の方も一八世紀にすっかり塗り変えられて最初の趣は全く失われてしまったが、十九世紀から二十世紀にかけて行われた作業によって十三世紀の壁画のある教会後陣の一部と、入口の左右にローマ式柱と窓のあるシャピートルの部屋が復元された。現在、この一帯は、環境はより健康的にはなったものの、地表が平らにならされて、昔のおもかげはない。

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

「ボローニャからローマへ」 Ⅲ

シンピジウム2


 1219年から20年にかけての冬を、ドミニコはローマで過ごすが、これは、ドミニコ会の歴史の中で重大な時期となる。
 ホノリウス教皇は、前教皇から受け継いだひとつの仕事をドミニコに委任しようとしていた。それは、ローマの七つの修道院にわかれ住み、規律も殆どなくなっている八十名の修道女たちを一カ所に集め、規律を正すのみならず、当時、ヨーロッパで徐々に再建されていた禁域制をとりいれさせることである。
 十二月十七日、教皇は、サン・シクストの教会をドミニコに与え、ここにローマの修道女たちを集め、プルイユやファンジョーと同じく、ドミニコの規則に従って彼女たちの修道生活を改革することを託した。この勅書は、ビデルボからではなく、チビタ・カステラナ、即ち、ローマまであと一日路のところから発せられている。教皇はクリスマスをローマで祝うべく、ローマに帰ってきたのである。ドミニコも同行していた。ローマに入ると、ドミニコの伴侶たちはサン・シクストに居を定める。
サン・シクストは、アッピア街道の脇、カルカラ浴場に面している。ここに、五世紀に建てられたバジリカがあったが、十二世紀を通じてローマに勃発した戦争と火災、略奪、破壊で廃墟となってしまった。その上、ローマの他の古い建物同様、道路の地表が高くなるにつれて土にうもれていった。インノセント三世は、ここにローマの修道女を集めようと考え、教皇庁の費用でこれを改築させた、というより、この建物の大部分をすっかり埋めてしまい、バジリカの両翼をこわし、柱と柱の間のアーチを壁で埋めて、中央部分の上に、かつてのバジリカの半分しかない教会を建てた。新しい後陣はもとの後陣の上に建てられていた。それで、釣り合いは悪かったが、修道者の歌隊席を作るのには都合が良かった。インノセント三世の死により、作業はここでとまっていた。

 

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

「ボローニャからローマへ」Ⅱ

晩秋

 
 ボローニャの修道院は、活気にも人材にも溢れていた。一方、パリでは、入会者の殆どが学生で養成を必要とし、また、サンジャック修道院そのものもいろいろな法律上の問題をかかえていた。ドミニコは、ボローニャに福音の旋風を巻き起こしたレジナルドをパリに派遣することを決定する。ボローニャをこれだけ沸かせたレジナルドは、今度は、自分と同国人の間に福音の旋風を巻き起こすことになろう。
 十月末、ドミニコ自身、数人の伴侶と共に教皇庁に向う。その途次、フィレンツェに立ち寄り、まだ修道院を持たずに、一日の説教行脚を終えると貧者の宿泊所で夜を過ごしていた兄弟たちと共に数日を過ごす。この間にも、ドミニコはいつものように説教し、ひとりの兄弟に、宿泊所で説教者兄弟の服を授けている。
 十一月初旬、ドミニコは伴侶と共にビテルボに着いた。当時、教皇はビテルボに移っていた。インノセント三世の没後、種々喧噪があったローマを避けて、ホノリウス三世は教皇庁をここに移していたのである。
 ドミニコから、スペイン、フランス、イタリアでの会の発展の報告を受けた教皇は、感嘆を禁じ得なかった。今や、百人以上の説教者兄弟たちが、ヨーロッパの各地で、教皇があんなにも望んでいた説教による福音宣教を繰り広げていたのである。
 ドミニコは、この兄弟たちの働きがよき実りをもたらすように、教皇から何通かの勅書を得る。ひとつには、兄弟たちが、教会の既製の制度に妨げられることなく、自由に説教活動ができるように、また、その活動が教会当局の支持を受けるようにしなければならない。他方、これだけの説教と聴衆の心を捉え、説教の実りをもたらした使徒的生活、特にその貧しさ、托鉢の生活を会としてとりいれるに当たって、同じような生活形態をとっていたカタリ派の異端者との混同を避けるために、教皇自身の権威による保証が必要である。
 このとき、次々と出された勅書を見ると、教皇のドミニコへの厚意、信頼、愛情が、回を重ねるに従って高まっていくのがうかがわれる。
 1219年12月12日、ドミニコは、「全く托鉢によって生きる」ことを認める勅書を得る。これによって、それまでは説教行脚の時にのみとっていた托鉢の生き方を、修道院にも及ぼすことができるようになった。自分たちの現在と将来の生活を、神の摂理に全く委ねた生き方がはじまるのである。
プロフィール

聖ドミニコ女子修道会

Author:聖ドミニコ女子修道会
長い歴史があるキリスト教カトリックの女子修道会です。日本では、学校や幼稚園、児童養護施設でキリスト教に基づく教育をしています。また、教会、病院、黙想の家、その他でも<みことば>を伝えています。

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