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「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

 「聖ドミニコの生涯」 「説教者兄弟会の誕生」Ⅲ

新年


 ピエール・セイラの家に住む共同体が、具体的にどのような生活をしていたかは書き残されていない。しかし、多分
千二百十五年の夏頃のことと想定される次のような話が伝わっている。ツールーズの聖ステファノ教会参事会の神学教授であったイギリス人のアレクサンダー・スタべンスバイ(彼は1217年の半ばまで聖ステファノ教会で教えていた)が授業をしていると、ドミニコが、同じ服をつけた六人の仲間と共に教室に入ってきて、講義をきかせてほしいと願った。教授は喜んでその願いをいれ、以後、かれらと親しい友情を結んだ、というのである。これはドミニコが、最初から、説教の源泉として神学を重視していたことを十分に示すものである。ツールーズで、説教は、焦眉の急務であった。それにもかかわらず、ドミニコは、兄弟たちが神学を学ぶ時間をとることを欲したのである。ジョルダン・ド・サクスの記録によれば、先の十分の一税からあてがわれたもので購入する必需品の筆頭に本があげられている。
 それまで、修道生活の中で大きな位置を占めていた手仕事は、ドミニコの共同体では姿を消し、勉学と説教がこれに代わっていた。これも全く新しいことであった。
 1215年4月、二人の仲間で発足したこの共同体は、急速に仲間の数を増し、夏には少なくとも六人の仲間がいた。しかし、この名前の残っている六人のほかにも、もっと仲間がいたに違いない。とにかく、共同体は、間もなく一軒の家に入りきれなくなって、同じくピエール・セイラがドミニコに提供した他の二軒の家にも分宿することになった。翌年は、より広い場所を求めて引っ越しをすることになる。ディエゴ司教と共に九年前にはじめたこの活動は、まさに結実の時を迎えたのである。
 1215年9月のはじめ、ドミニコは同年11月ローマで開かれる第四ラテラノ公会議に出席するフルク司教と共にローマに向う。10月のはじめ、フルク司教とドミニコはいっしょに教皇に会うことができ、「説教者の会と呼ばれ、真実説教者である会の確認」を教皇に願ったのである。

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「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

 「聖ドミニコの生涯」 「説教者兄弟会の誕生」Ⅱ

秋1


 現代の感覚では、これは大して不思議なこととも思われないであろう。しかし、個人にではなくひとつの共同体に、期間の区切りなく永続的に説教の権利が与えられるということは、全く新しい、破格のことであった。これは、教会の司牧システムを変えることであった。
 「十分の一税の三つ目の三分の一の二分の一」とは何を指すのであろうか。旧約時代、人びとは収入の十分の一を神殿に納めていたが、その習慣を受けて信徒が教会に納めるものを十分の一税と呼んだ。フランスとスペインでは、教会法により、この十分の一税を三つに区分した。最初の三分の一は司教のため、次の三分の一は司祭のために用いられた。そして、三つ目の三分の一は、教会の建物のため、および貧しい人のために用いられるべきであった。財産も持たず、報酬なしに説教してまわった説教者たちは、貧しい人とみなされたわけである。
なお、さきのフルク司教の文書には、「もし、一年の終わりに残余金があるなら、それは司教にかえし、司教はそれを教会の建物のため、あるいは貧しい人のために用いるものとする。」とつけ加えられている。ドミニコとその兄弟たちは、ほんとうに必需品だけを受けたわけである。
 三分の一の二分一の用途の中に、食物が入っていないのに気づかれたかもしれない。当時「キリストの最初の弟子たちに倣った説教者」というとき、馬に乗らず、金銭も持たず、食物は戸ごとにまわって施しを乞い、説教行脚では人の厚意にたよって宿泊するということを意味した。それは、イエスがはじめて十二人の弟子たちを説教行脚に派遣なさったときのおことばに従うものである。
 「金銀や銅貨を、帯に入れてはならない。旅袋も、二枚の上着も、くつも、杖も、持っていってはならない。働く人は、当然、自分の糧を受けるはずであるから。」(マタイ福音書第十章九〜十節)
 しかしドミニコにとって、このような生活形態は、キリストや最初の弟子たちに倣うためだけではなかった。ドミニコの生涯の最も権威ある記録者であるジョルダン・ド・サクスは、次のように書いている。「それは、物質的な管理に心をわずらわされることなく説教に専心することができるためであった。」
 ここに、ドミニコの心を知ることができる。かれは、説教者にとって、精神の自由がいかにたいせつであるかをよく知っていたのである。

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

「聖ドミニコの生涯」 「説教者兄弟会の誕生」 Ⅰ

巣箱 ⒂


 「われわれの主、イエス・キリストのみ名によって。
 神の恵みによってツールーズの司教座のいやしい僕なるフルクは、異端を根絶し、悪を退け、人びとに信経と健全な道徳を教えるために、兄弟ドミニコとその仲間たちを、われわれの司教区の説教者に任ずる。(中略) 衣服や病気の時の必需品を購入し、疲れた時に休養をとることができるように、かれら及び将来かれらと同じ仕方で説教にたずさわる人びとに、十分の一税の三つ目の三分の一の二分の一を与える。(後略)」
 これは、1215年、ツールーズのフルク司教が発布した公式文書である。ピエール・セイラの家に集まった共同体は、こうして、教会内に公式に位置づけられたのである。
 かれらは、「イエス・キリストの説教」 の印を用い続けていた。そういう意味では、かっての南仏の説教の継続であるが、かっての南仏の説教が異端を根絶することを目的としていたのに対し、今は、カトリックである人たちをも対象とし、かれらに信経を説き健全な道徳を教えることをも等しく目的としているという点で、この共同体は新しいものであった。即ち、説教という分野で、ドミニコとその兄弟たちは、司教の真の代理者としてたてられたのである。

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「聖ドミニコの生涯」 「ファンジョー,プルイユ,ツールーズ」Ⅵ

紫式部


ドミニコは、非常に遠慮深い人だった。町から町へ、村から村へと説教して歩くとき、埃だらけで疲れ果てた姿でどこかの家に着いてその家の人をうろたえさせることを欲しなかったので、目指す町や村に近い泉や流れのほとりに足をとめ、そこで顔や足を洗って身をととのえ、水を飲んで渇きをいやしてから着くようにしていた。モレアルの町から二キロ位離れた木立の中の泉も、ドミニコがそのように用いた場所だと言い伝えられている。
 ドミニコは、司教になるよう、少なくとも二度要請されているが、いつもことわっている。彼は位階など持たず、単なる説教者に過ぎない自由を大切にしていたのである。彼の使命は説教を続けることであった。
 1215年、種々の事情から、「イエス・キリストの説教」はツールーズに中心が移され、ドミニコはツールーズに移る。ドミニコの活動はここでも実り多く、婦人たちの改宗者もあって、プルイユのようなセンターがここにも設立される。
 ここで、画期的なできごとがおこった。1215年4月、ツールーズの富裕な市民二人がドミニコの手の中に誓願をたてたのである。かれらのうちのひとり、ピエール・セイラはナルボンヌ城に接する自分の家を、ドミニコとその兄弟たちに提供した。この家は、今でも昔のままの外観を保ち、ドミニコがそこで休んだといわれる部屋もみることが出来る。ここで、通称ドミニコ会と呼ばれる「説教者兄弟会」はうまれた。
 この家は、ナルボンヌの門のそばにあり、三世紀以来町の城壁となっていたガロ・ロマン様式の壁を一部とりいれた形になっている。この家を得たことは、ドミニコと兄弟たちにとって幸運であった。戦乱が続く中にあって、期せずしてナルボンヌ城の庇護のもとに置かれたことになる。また、ナルボンヌの門からの道は、ファンジョー、プルイユへの道でもあった。こうして、これまで、説教行脚に出ていない時は小さな町ファンジョーか、畑に囲まれたプルイユに住んでいたドミニコは、初めてツールーズという大都市に居を構えることになった。
 これまでの修道会が、町を離れて、あるいは山の上に、あるいは田園に修道院を設けたのに対し、ドミニコは都市に修道院をもうけた。とはいうものの、ドミニコは、好んで町の内と外の境い目、町の門のそばに修道院をもうけた。いくつかの町では、城壁から直接修道院に出入りする口をつける特権を得、町の門がしめられた後でも自由に出入りできるようにして、兄弟たちの説教活動を容易にした。

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

「聖ドミニコの生涯」 「ファンジョー,プルイユ,ツールーズ」Ⅴ

百日草2


 ピエール・ド・カステルノーの暗殺を引き金に、教皇は十字軍を要請し、1209年6月、リオンに集合した十字軍は南仏を襲い、カタル派の町を次々に占領していく。十字軍の頭は勅使アルノー・アモリイだった。
 ドミニコが十字軍に協力したという資料は何一つない。反対に彼がこれに加わろうとしなかったという資料はいくつもある。信仰と平和のための教会の仕事の中でドミニコは自分の分を選んだ。1206年6月、モンペリエでディエゴと共にいたとき識別したもの、即ち、教会から派遣されて、キリストが弟子を派遣なさったときのようにつつましい仕方で説教することを、ドミニコは決して捨てなかった。
 それに、十字軍を要請した同じ教書の中で、教皇は、南仏の教会の責任者全員に説教活動を盛んにすることを命じていた。ドミニコは、まさにこのつとめを、静かにしかし実りをもたらしながら続けていたのである。十字軍のように華華しく日を追った記録は残っていないが、あちこちに散在する証言をつなぎ合わせると、ドミニコの活動は、この期間に、プルイユとファンジョーを中心に、東西南北、非常に広範囲に及んでいることがわかる。
この時代の逸話のいくつかをお伝えしよう。いずれもドミニコの面目躍如たるものがある。
 ある日のこと、ドミニコがプルイユからファンジョーに行こうとして歩いていたとき、こんもりとした茂みの後ろに、ドミニコを襲うためにカタル派の領主たちが送った伏兵がいた。彼らは、ドミニコを捕らえて領主たちに渡すようにと命ぜられていた。宗教的熱狂が最高の残虐行為をも正当づけたこの時代のことである。生きながら捕らえられるのは、その場で殺害されるより更に悪かったに違いない。ドミニコは、伏兵がいることを告げてくれた人がいたにもかかわらず、「喜ばしげに歌いながら」その道を通った。伏兵はその姿に圧倒されて手を出すことができなかった。
 また、ある日のことカルカッソンヌからモレアルへの途次、ドミニコが一人の伴侶と祈りながら歩いていると、突然激しい大雨となった。ところが、ドミニコと伴侶の周囲ニメートルだけはけっして雨が降らなかったので、二人は少しも濡れずにモレアルに着いた。

プロフィール

聖ドミニコ女子修道会

Author:聖ドミニコ女子修道会
長い歴史があるキリスト教カトリックの女子修道会です。日本では、学校や幼稚園、児童養護施設でキリスト教に基づく教育をしています。また、教会、病院、黙想の家、その他でも<みことば>を伝えています。

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