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聖ドミニコとはどんな方?4

熟慮の人
シスター武田教子

どみにこ 

  私は最初の修道士のひとりではないが、彼らと共に生活した。入会前ばかりでなく、入会後に同会で生活したときもドミニコと再び会い、彼と親密に交わった。私は会創立四年目に修道服を受けた。私は会のすべての出来事を書き記しておくべきであると判断した。会のはじめの頃のこと、私たちの幸いなる父ドミニコの生涯と奇跡について私が個人的に見聞きしたことおよび最初の修道士たちとの交わりによって知り得たこと――つまりこれから生まれ、成長する子たちが、会の起源を知らないということがないよう、また時が過ぎ去り、その起源を確実に語ることのできる者がいなくなったとき、知ろうとしても徒労に終わることがないように。
(ジョルダン・ド・サクス著『リベルス』)

 聖ドミニコおよび説教者兄弟会の創立について、私たちが知り得る最も古く確実な資料は、聖ドミニコの後を継いで会の第二代総長となったジョルダン・ド・サクスが、このような考えから聞き集めたものを書き記した『リベルス』のおかげです。

 ドミニコは、当時の修道生活の世界の中で、新しい生き方を始めました。彼は使徒的生活、すなわち使徒の模範に倣った生活を制度化しました。「共に生きる」共同生活と、「福音宣教」の行脚を、一時的にではなく、生涯を賭けた生き方として創設しました。

 最初、ドミニコは「司教座聖堂参事会員」として呼ばれ、オスマという一司教区に所属しました。ところが当時の教会は、一司教区に限定されずに広くキリスト教世界で働く使徒、福音宣教者を必要としていました。誰かがこの生活を、しっかりと継続する組織として定める必要がありました。ドミニコはこの働き手として神から召されました。こうして彼は、福音の説教者キリストに倣う説教者の会を創立したのです。実はこれは、当時何人もが試みながら成功しなかったことでした。

 会の初期から、ひとつの逸話が伝えられています。

教皇は、ドミニコと兄弟たちの会を認証するとき、教皇庁の公証人に対し、宛名を「説教している兄弟たち」とするようにと言いました。ところが公証人は、認証書の浄書に直接、「説教者兄弟たち」と書きました。認証書を読み返した教皇は、公証人に言いました、「何故私が言ったように『説教している兄弟たち』と書かないで『説教者兄弟たち』と書いたのか?」。公証人は何のためらいもなく答えました、「分詞形は名詞として用いられることもあり、だから動作を示す普通名詞として扱うこともできるとは言うものの、説教しているというのは形容詞です。しかし説教者というのははっきりと名詞であり、同時に動作と人とを示し、役割の名を明確に宣言します」。ですから親愛なる読者諸君よ、公証人がいかに的確に異議を退けたかをご覧なさい。説教しているという言葉は一過的な行為としてしか内容を示しません。しかし、説教者という語は、たとえ常にその行為をしていなくても、その内容を所有していることを意味します。説教者と書いたことはまことに適切でした。教皇はこの明白な理由に賛同したので、会は説教者という名を称号として受け、この名のもとに、枢機卿たちによって荘厳に認証されました。
(ヴィケール著、『聖ドミニコと兄弟たち、福音か十字架か』から引用)  

 カルカッソンヌの記録保存所に保管されている認証の勅書には言葉の変更の跡が見えます。この変更は意味深いものです。実際、ドミニコはトゥ―ルーズあるいは他の地域で兄弟たちや自分自身が一時的(註4)に説教する許可を願ったのではありません彼ははるかに大胆なヴィジョン、かつて使徒たちが聖霊降臨の後エルサレムで生きた生活を、今日のために創立しようというヴィジョン持っていました。

 使徒的生活とは共同生活(コミューニティー)と福音宣教です。  

 共同生活とは個人の全体、心も体も投入したものです。物質的には財産共有であり、共に祈り、共に典礼祭儀を祝い、心と魂をひとつにして一致して一つ屋根の下に住みます。兄弟たちは心と魂をひとつにしていないなら長く一緒に住むことは出来ないでしょう。

 ドミニコはこの生き方を選んだとき、兄弟たちに当時司祭が当然のこととして自分のものにしていた収入を断つことを求めました。
説教の自由、兄弟たちの応需性、イエスの模倣等々、どの理由からしてもこの分野でドミニコは妥協を許しませんでした。

 ドミニコは貧しさを非常に愛し、兄弟たちも貧しくあるようにと励ましたばかりでなく、収益をもたらすような不動産は全面的に拒否しました。そこにはっきりとドミニコの意図を見ることができます。彼は兄弟たちは説教およびそれに関連すること、勉学と祈りに専念して欲しいと願っていました。彼は兄弟たちを托鉢者としました。彼らはこの名のもとに知られています。托鉢は時代によっていろいろな形をとりました。今日も、会員は自分の収入を持たず、会が与えるもので生活しています。会員が何かを受けるならそれはすべて共有とします。

 熟考の人であるドミニコは、この分野で言を左右することはありません。彼は使徒的生活の活力はこれによることを知っていました。死に際してもなお、彼は兄弟たちが自主的貧しさを生きるようにと励ましました。

註4 当時も今も、説教は司教の許可をもって行われます。ドミニコの会はトゥ―ルーズの司教のもとに創立された説教団でしたから、トゥ―ルーズ司教区内で自由に説教することが出来ましたが、トゥ―ルーズ司教区の外では、その地の司教の許可を受けなければ説教することができませんでした。それに対し、教皇の認証を受けることによって、世界中どこに行っても、どの司教区でも、その地の司教の許可を願う必要なく説教することが可能になりました。 
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聖ドミニコとはどんな方?

「聖ドミニコとはどんな方?」 1、シスター武田教子

ドミニコ 2


聖ドミニコは西暦1170年か71年、スペインのカレルエガという村に生まれました。父のグスマンのフェリクスも、母のアザのヨハンナも共に小さなお城を構えた小貴族でしたが、カレルエガはアザ家の所領でした。深い信仰を持った家族で、叔父のひとりは司祭でした。そしてドミニコだけではなく、ドミニコのふたりの兄弟、アントニオとマンネス、及び彼の姉妹の息子ふたりも司祭になり、兄のアントニオを除く全員が、ドミニコが創立した説教者兄弟会の会員となりました。

生前からドミニコの名はよく知られていたにもかかわらず、ドミニコについての逸話は列聖調査の証言(聖ドミニコを教会全体の模範として示すために、ローマの教皇庁によって行われた公式調査での証言)以外殆どありません。『聖ドミニコがローマで行った不思議な業』と題する小編は、稀な記録のひとつで、ドミニコに出会った当時は17歳であったセシリア修道女(註1)が老年になって語ったことを、もうひとりの修道女が書きとめたものです。

最も貴重な記録は、ドミニコの後を継いで、説教者兄弟会(通称ドミニコ会)の二代目総長となったジョルダン・ド・サクスが、ドミニコを知る人々に聞きながら記したものです。彼自身、生前のドミニコには短期間出会ったに過ぎません。説教者兄弟会の総長は、ドミニコがしたように兄弟たちを励ますために修道院を巡歴するので、彼はこの機会を利用して、自分もよく知らないドミニコ、後輩に是非伝えたいドミニコの姿を求めて目撃者たちに尋ね、これらを書きとめました。これが『説教者修道会創立史』で、説教者兄弟会に関する最初の記録です。前掲の列聖調査の証言に先立って書かれました。
これに続く資料として、説教者兄弟会士ペトロ・フェランドの『聖ドミニコ伝』及び『1203年から1254年までのドミニコ会史』があります。

今回は、これらの資料から読み取った聖ドミニコについて、説教者兄弟会士アレン・キリチ師が解説するところに沿ってご紹介したいと思います。

※註1
 ドミニコが教皇から、ローマのあちこちに住み、規則もはっきりしなくなっていた隠棲修道女たちを集め、指導するようにと委託されて、紆余曲折の末、1221年2月28日、サンシスト修道院に隠棲修道女たちを集めたときのひとりで、彼女はそのとき、17歳でした。
1223年、彼女は他の3人の修道女と共にボローニャの隠棲修道院設立のために派遣されました。その修道院でセシリア修道女が語ったドミニコの思い出を、字が書けなかった彼女に代わってアンジェリック修道女が書きとめたものが、今に伝わっています。
プロフィール

聖ドミニコ女子修道会

Author:聖ドミニコ女子修道会
長い歴史があるキリスト教カトリックの女子修道会です。日本では、学校や幼稚園、児童養護施設でキリスト教に基づく教育をしています。また、教会、病院、黙想の家、その他でも<みことば>を伝えています。

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