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[聖ドミニコとはどんな方?]

「聖ドミニコとはどんな方」 8 『記念の人』 シスター武田教子

アジサイ3


 最初におことわりしなければなりません。ここで用いる「記念」の語は教会用語で特殊な意味を持っています。読み進めてくださるとご理解いただけるでしょう。

 聖ドミニコにとって「典礼」は非常に重要な位置を占めました。典礼は神の業、キリストの生涯を私たちに記憶させ、それが意味するところに参与させるものです。典礼祭儀は聖ドミニコの兄弟たちの生活全体の中心であり、心です。

 典礼は、神との関わりのの内的な生活を、教会の中で公に表します。神は人間と交わるためにいろいろな方法を用いることがおできになったでしょう。その中で神は受肉、人間となる、という方法をお選びになりました。神は、言葉やしるしを交わす人間の話し方お使いになります。典礼によって神は恒常的かつ感覚的に人々と接触なさいます。神はそこで宣言されるみことばによって人々を養ってくださいます。命の源泉である秘蹟によって鍛え、育ててくださいます。兄弟的な集会に呼び集めてくださいます。彼らの祈りを聴き、お答えになります。

聖ドミニコは、兄弟姉妹に対して、共に祈るようにと望みました。個人的な祈りも欠かすことはできませんが、兄弟姉妹たちは教会の中で絶えず賛美ととりなしを続ける役割を受けました。聖ドミニコは、兄弟姉妹たちがこの祈りを彼らの使徒的修道生活の中心とするように願っています。

 神学の勉強や説教が可能であるように時間割を調整しなければならないとしても、聖ドミニコは、兄弟姉妹の生活が典礼祭儀で区切られているようにと望みました。なぜなら、時間そのものも神の者とされなければならないからです。典礼は年、週、日、時間を聖化します。

 説教者兄弟会隠棲修道女たちは、兄弟たちが告げ知らせる使命を帯びている神のみことばを、典礼祭儀で祝うために一生を捧げます。彼女たちはこのようにして、人々の救いという会の目的に、積極的に参加しています。

 兄弟たちとしては、詩篇および自分たちが告げ知らせる福音で自らを養わなければなりません。説教者兄弟会の会憲は、次のように言っています。

アンジェリコ1



       典礼の中で、兄弟たちはキリストと共に、神のみ心の永遠のご計画と感嘆すべき恵みの賜物の故に神に栄光を帰す。       典礼の中で、教会全体、また全世界の必要と救いのために、慈しみ深いおん父に嘆願する。故に典礼の祭              儀は私たちの全生涯の中心であり、私たちの一致はそこに根ざしている。


 典礼は兄弟たちの生活全体に浸透しています。彼らの生活そのものが典礼であり、何かにつけて主が祝われていることを表さなければなりません。食卓での儀式も、兄弟の関係も、会議も、沈黙でさえも説教者の生活の典礼生活を織りなします。
 説教者兄弟会の初代会憲には、聖ドミニコの筆致を感じさせる跡があります。

      兄弟たちは、長上が免除を与えた場合以外は、朝課、ミサ、そして教会の祈りのすべての時課を聴くために、共に留ま      らなければならない。食事を摂る場合も同様である。教会の祈りの全時課は、教会で唱えなけらばならない。唱える場合      は、兄弟たちが信心を失わないように、しかしながら勉学が妨げられることのないように、簡潔かつ正確に唱和しなけれ      ばならない。すなわち、唱句を途中で切って休みが入るときリズムを守り、休みのところで声を長引かせることなく、また       唱句の終わりも同様にして、先に言ったように簡潔に正確に終わらなければならない。リズムは、典礼歴(註6)に適合させ      なけれならない。

聖ドミニコの時代に、伝統的な修道会の修道士は一日の最良の時間を歌隊席で過ごしていましたが、兄弟たちはそうはできませんでした。彼らの時間は説教に、また説教を準備する勉学に用いなければなりませんでした。緊急度の順序がありました。ドミニコは、教会の祈りの典礼的詠唱に重きを置いていましたが、しかし二番目に置いていました。

 そのため、「免除」の制度を設けました。これは実に説教者の生活に不可欠な手段です。すなわち兄弟は誰でも説教のためあるいは勉学のために、全員が共に唱える教会の祈りを免除され得ます。司祭である兄弟は個人的に唱えることになります。

 死を前にした最後の晩餐の席において、主イエスは「これを私の記念として行いなさい」と言われ、秘蹟の形でご自分をお残しになりました。聖ドミニコは使徒たちに続き、その模倣をする記念の奉仕者です。記念とは思い出ではありません。思い出は過ぎ去った過去に帰らせます。かつてその場に居合わせた人々に印象づけた出来事、状況、人々がありました。彼らはその思い出を持っています。それを思い起こします。それに郷愁を持ったり、反対に悪い印象を持ったりします。

 しかし、ここで言うのは「記念する」ことです。出来事を、あらゆる時代のものとして現実化することです。今日、今生きている私のために、キリストは生まれ、裏切られ、苦しみ、死に、復活なさいます。今日、今の瞬間生きている私に、キリストは交わりの中でご自分の身体と血を秘蹟的に与えてくださいます。今日、「あたかも私があの場にいたかのように」神のみことばが宣言されるのを聞き、この神のみことばは私に触れます。物理的な意味で私に触れます。

 ドミニコは説教者という召命によって、主の救いの行為を、説教と自分の生涯そのものによって現実のものとする恵みを受けました。説教者、司式者として、あるいは説教を聞き、聖体を受ける信仰者として、神の典礼に与るすべての人と共に、ドミニコは「これを私の記念として行いなさい」という主のご命令を実行し、その意向を果たすのです。

註6 カトリック教会の暦は、キリストの誕生であるクリスマスを待つ「待降節」(普通の暦の11月末か12月初めに始まります)で始まり、キリストの誕生(クリスマス)と復活(イースター)の大きな喜びの季節、復活に先立つキリストの受難を思い、その遍歴を追う「四旬節」、そしてその間には、イエスの生涯を福音書等に従って想起し、キリストに倣って生きる期間があります。それぞれの時期にあわせて、祈りの言葉、メロディー、リズムが変わるので、それを尊重して唱和し、歌います。
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プロフィール

聖ドミニコ女子修道会

Author:聖ドミニコ女子修道会
長い歴史があるキリスト教カトリックの女子修道会です。日本では、学校や幼稚園、児童養護施設でキリスト教に基づく教育をしています。また、教会、病院、黙想の家、その他でも<みことば>を伝えています。

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