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聖ドミニコとはどんな方

「聖ドミニコとはどんな方」 12 『十字架の人』 シスター武田教子

16 秋2


 聖ドミニコは祭壇の前に立ちました。そこで彼は十字架を見つめ、だれも真似することのできない深い観想に浸っていました。十字架の前で、彼は幾度も幾度もひざまずきました。時に、終課から夜半まで、立ったりひざまずいたりして祈っていました。そのとき、私たちの父聖ドミニコの心の中に、彼自身のため、すべての罪人のため、また、福音の説教者として世のただ中に派遣した若い兄弟たちのために、神の憐れみへの大きな信頼の情が沸き起こるのでした。
                                                      ―――(聖ドミニコの九つの祈り方 第五)

 イエスの祈りの極致は十字架上の祈りでした。この祈りについては、私たちはほんのわずか、いくつかの叫びしか知りません。 しかしそれが計り知れない愛に満ちたものであったことを察することができます。ドミニコは、この死に瀕した苦しみにあるイエスの祈りの幾分かを感知する恵みをいただいていました。わたしたちは、このイエスの犠牲と一体となる恵みに参与するように招かれています。人々の救いのために払うべき代価です。神が要求なさる代価ではなく、神がすべての人を救おうとなさるお心遣いに分け与りたいということを表明するために払わなければならない代価です。
 イエスに続いて殉教者が、主のように血を流す恵みを受けました。兄弟ドミニコは殉教を望みました。偉大なことをしようと望んだのではなく、ただ、自分自身を捧げ尽したいと望んでいました。
 兄弟ジャン・デスパーニュは、ドミニコが、鞭打たれ、切り刻まれて、イエス・キリストへの信仰のために死にたいという望みを表明していたのを、何度も聞きました。

     この動機から、上に述べたことの当然の帰結として、かれは鉄の鎖で自分を鞭打っていました。
                                                ―――(ドミニコの九つの祈り方 第三)

 現代の私たちにとっては、このようなやり方は不思議に思えます。しかし、聖ドミニコにあっては、鞭打ちは彼の信仰の現実性の表れです。彼は、イエスが兵士たちによって鞭打たれたということを読むと、そのまま次に読み進むことはできず、そこで止まってしまいます。彼はこのような記述に慣れてしまうことはできませんでした。彼はそれを自分の上に引き受けます。
 
     幸いなるドミニコは、いつも腰のまわりに、肌に直接、鉄の鎖を巻いていました。彼はこれを死のときまで保ちました。
                                                ―――(兄弟ロドルフの証言)

 時代が違うでしょう。では、現代の人は主のご受難に与り、自分の体にイエスの苦難と死を引き受け、主が自分を愛してくださったように自分も主を愛したいということを表すために何をするのでしょうか?
 彼はゆかにうつぶせに伏し、イエスが泣かれたように泣きました。

     しばしばまた、幸いなるドミニコは地面に顔を伏せ、うつぶせに体を伸ばして祈りました。そんなとき、彼の心は真の悔悛     の情に満ちました。彼は聖書の教えを思い起こし、時に、周囲に聞こえるような大きい声で、「神よ、罪人である私をあわ
    れんでください」(ルカによる福音書 第18章13節)と言っていました。そして彼は泣き、大きなうめき声をあげました。

 彼は聞いてもらうためにうめいたのではありません。心の痛みが溢れたのです。彼は使徒としての自分の魂の深奥に触れられたのです。これが悔悛です。彼が泣くのは自分の罪のためばかりではなく、世の罪、神への無関心、侮辱、憎しみのために泣くのです。
 聖ドミニコは、難しい、たいへんデリケートな問題のために祈りを依頼されたときには、十字架の形に腕を広げて祈りました。これを、勤行としておこなっていたわけではありません。これは主イエスの模倣であり、イエスがなさったようにしたのでした。

 緊急な必要に迫られて、特に創立途中であった会のために祈ったときは、兄弟ドミニコはまた別の祈り方をなさいました。彼は大きな弓につがえられた矢のように、天に向かって背筋を伸ばして立っていました。両手は合わせて頭上に高く上げていました。父ドミニコは子どもたちのために何を願ったのでしょうか?人間的成功を願ったのでは勿論なく、彼らが修道生活から何も取り除くことなく生きて、幸せであることを願いました。

 この祈りの後、ドミニコはより確信を持ち、より穏やかで、兄弟たちに話し、矯正しなければならない者を励まし、助言し、決定しました。彼と同時代の人々が彼を予言者だと思ったことは驚くに当たりません。彼はこのように祈った後、あたかも遠くからやって来た巡礼者のようで、それはその姿や表情から容易に察することができました。
 十字架の人、聖ドミニコは、特にミサ聖祭の中に霊的活力を汲みました。兄弟エチエンヌはこれを証言することができますが、その理由は、ヴィケールの著書に示されています。

    彼(兄弟エチエンヌ)はしばしば兄弟ドミニコのミサに与りました。聖変化のとき、兄弟ドミニコの目と顔には涙が溢れました。兄弟ドミニコは非常な熱意で主の祈りを唱え、その信仰心は誰の目にも明らかでした。彼は聖ドミニコが涙なしにミサを捧げるのを見た覚えがありません。                                          ―――(ヴィケール)


 ドミニコの涙は、彼の大きな憐れみを表すものです。これは感傷ではなく、非常に大きな感受性です。いやしめられた神と共に苦しみ、死刑の宣告を受けた救い主と共に十字架を担い、罪に押しつぶされた罪人と共に泣く、肉の心です。主の愛に自分の愛を混じえるために人間ができることです。


            
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プロフィール

聖ドミニコ女子修道会

Author:聖ドミニコ女子修道会
長い歴史があるキリスト教カトリックの女子修道会です。日本では、学校や幼稚園、児童養護施設でキリスト教に基づく教育をしています。また、教会、病院、黙想の家、その他でも<みことば>を伝えています。

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