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「聖ドミニコの生涯」

「聖ドミニコとはどんな方?」のご愛読をありがとうございました。「楽しみに読んでいました。」と感想をいただき、嬉しく思いました。さて、今回から、「聖ドミニコの生涯」をお届けします。

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[聖ドミニコの生涯] シスター武田教子

誕生の地 1

 バイャドリッドを後にして、やせた石地の道を東へとたどる。時どき緑の樹木が帯状に続くのがみえる。これはドエロ川の流れを示す。乾燥した土地なので、大きな木は川沿いにしか育たないのである。川に沿いながらカスチリアの高原をゆるやかに登っていくと、ペニャフィエルで海抜750メートル、アランダで800メートル、カレルエガで950メートルに達し、カレルエガの村はずれのサン・ホルヘの丘の白い岩で丁度1,000メートルに達する。鉄道はアランダまでしか来ていないが、そこからカレルエガを通って、サント・ドミンゴ・デ・シロスまではバスの便がある。
 カレルエガ。それは、修道会がその名を負うドミニコの生誕の地である。
 カレルエガは、昔も今も大して変わらない、小さな、貧しい村である。高地なので冬は寒く、大きな樹木が殆ど無いので夏は灼熱の太陽をさえぎるものがない。バイヤドリットの人たちは、カレルエガは「九か月の冬と三カ月の灼熱地獄(Nueve meses de invie-
erno, tres de infierno)」だという。
 痩せた土地、少しばかりの葡萄畠と羊の放牧の村。しかし、この地域はローマ時代の街道筋に当たっており、ずっと以前から人間が住みついていた。カレルエガから」数キロメートル離れたクルニアは、ローマのガルバ皇帝治下の数か月間(紀元前六十九年から六十八年にかけて)は特に有名になった町である。クルニアは、当時六万から八万の人口を擁し、劇場や水道も完備して、この地方の七大都市のひとつであった。ここはまた交通上の要地でもあった。カレルエガは、ローマ街道からほんの少し北にはずれているが、ドミニコの時代にもこの街道は完全に残っており、使用されていた。
 その後ここは、数百年にわたって、ゴート人、回教徒等に占領されては奪いかえす戦場でもあった。
 ここに平和がめぐってきたのはやっと十二世紀の前半、即ちドミニコが生まれる約五十年位前のことである。
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プロフィール

聖ドミニコ女子修道会

Author:聖ドミニコ女子修道会
長い歴史があるキリスト教カトリックの女子修道会です。日本では、学校や幼稚園、児童養護施設でキリスト教に基づく教育をしています。また、教会、病院、黙想の家、その他でも<みことば>を伝えています。

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