「聖ドミニコの生涯」シスター武田教子
「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子 「デンマークへの旅」 2
しかし、当面は、ドミニコは、デンマークへと旅を続ける。この先の旅路については、何も記録は残っていない。デンマークでの使命は成功し、ディエゴ司教は、当時の習慣に従い、代理権を行使して結婚を成立させ、再び難儀の多い旅の果てに、オスマに帰り着いた。
交渉の成功を喜んだカスチリア王は、王子が十五才(成人)となるのを待って、再びディエゴ司教に、デンマークから姫をお連れする使命を託した。ディエゴは前回と同じくドミニコを連れ、多分、使命にふさわしく、前回よりも華やかな装いの一行を伴って、恐らく1205年夏、再びデンマークへと赴く。
ところが、「姫は、その間に亡くなっていた」と古い記録はいう。
ところで、スカンジナビアに、最近明らかになった二つの興味深い資料がある。
ひとつは、1204年から1206年の間に、オルラムンドの伯爵が、二人の娘に修道院に入ることを許可し、ホウスドルクの修道院に持参金を納めたというものである。もし、件の姫が、オルラムンドの伯爵の娘であるとするなら-そうである可能性が高いのだが-伯爵には何人も娘がいて、三人も同時に身の振り方をきめさせたかったのであろうか。
もうひとつの資料は、二人の内一人は、カスティリャ王子の妃にと予定されていた姫ではないかと推測させるに足るものである。即ち、この頃、デンマークの首座教会であったルンドの大司教が、困難な結婚問題にぶつかっていた。彼の権限下にある高貴な一婦人が使節を介して外国の貴人と、言葉の約束で結婚していた。しかし、六カ月後、彼女は、その夫となるべき人がらい病であると聞いたので約束を破棄したいと思った。そこで、この結婚を回避するために修道院に入ることを決意し、修道院も彼女を受け入れた、というのである。
勿論、カスチリア王子はらい病ではなかった。しかし、当時の法律に従えば、言葉のみで成立している結婚の場合、らい病は離婚を有効にした。
では、このような行動に出た姫の動機は何だったのであろうか。当時の事情を考えれば、理解は困難ではない。彼女の叔母に当たるインゲボルグは、十二年前、フランス王、フィリップ・オギュストと結婚するために、はるばると旅して異国に赴いたが、結婚の翌日離婚されて、言葉も知らないその国で、修道院に監禁の憂き目にあっている。そんな目にあう位なら自分の国で修道院に入ってしまう方が余程ましではなかろうか。
とにかく、「姫は亡くなった」ということで、ディエゴ司教は、王の使者としての勤めから解放されることになる。彼は、王に姫の死亡を知らせる使者を送り、自身は、ドミニコを伴ってローマに赴き、冬をそこで過ごす。
この時、ディエゴは、オスマの司教座を退いて、北方の異民族のところに宣教に行く許可を教皇に願っている。いつも司教と行動を共にしていたドミニコも、この同じ望みを抱いていたであろうことは、想像に難くない。後年、ドミニコが、やっと組織らしいものができたドミニコ会を、兄弟たち(ドミニコ会員は、互いを兄弟と呼ぶ)の手に委ねて、自身は、北方の異教徒への宣教に出かけようとしたことも、これを裏付ける。しかし、教皇は、これを許さなかった。
カスチリア王が司教に託した使命は失敗に終わった。しかし、神のご計画は、これらすべての中にまっすぐに進められていく。カタル派との出合い、北方の異教徒との出合いの中で、ディエゴ司教とドミニコの、使徒としての精神は、次第に燃え上がる。カスチリアの世界を越えて、彼らの宣教の畑はひろがっていく。
北方への宣教を許可しなかった教皇は、彼らに、南仏でのひとつの重要な使命を託したのであろうか。あるいは、次におこる出来事は、偶然なのであろうか。とにかく、1206年春、アルプスを越えてカスチリアへの道を辿るかにみえたディエゴ司教の一行は、南仏で、対カタル派の説教団のただ中に置かれることになる。
しかし、当面は、ドミニコは、デンマークへと旅を続ける。この先の旅路については、何も記録は残っていない。デンマークでの使命は成功し、ディエゴ司教は、当時の習慣に従い、代理権を行使して結婚を成立させ、再び難儀の多い旅の果てに、オスマに帰り着いた。
交渉の成功を喜んだカスチリア王は、王子が十五才(成人)となるのを待って、再びディエゴ司教に、デンマークから姫をお連れする使命を託した。ディエゴは前回と同じくドミニコを連れ、多分、使命にふさわしく、前回よりも華やかな装いの一行を伴って、恐らく1205年夏、再びデンマークへと赴く。
ところが、「姫は、その間に亡くなっていた」と古い記録はいう。
ところで、スカンジナビアに、最近明らかになった二つの興味深い資料がある。
ひとつは、1204年から1206年の間に、オルラムンドの伯爵が、二人の娘に修道院に入ることを許可し、ホウスドルクの修道院に持参金を納めたというものである。もし、件の姫が、オルラムンドの伯爵の娘であるとするなら-そうである可能性が高いのだが-伯爵には何人も娘がいて、三人も同時に身の振り方をきめさせたかったのであろうか。
もうひとつの資料は、二人の内一人は、カスティリャ王子の妃にと予定されていた姫ではないかと推測させるに足るものである。即ち、この頃、デンマークの首座教会であったルンドの大司教が、困難な結婚問題にぶつかっていた。彼の権限下にある高貴な一婦人が使節を介して外国の貴人と、言葉の約束で結婚していた。しかし、六カ月後、彼女は、その夫となるべき人がらい病であると聞いたので約束を破棄したいと思った。そこで、この結婚を回避するために修道院に入ることを決意し、修道院も彼女を受け入れた、というのである。
勿論、カスチリア王子はらい病ではなかった。しかし、当時の法律に従えば、言葉のみで成立している結婚の場合、らい病は離婚を有効にした。
では、このような行動に出た姫の動機は何だったのであろうか。当時の事情を考えれば、理解は困難ではない。彼女の叔母に当たるインゲボルグは、十二年前、フランス王、フィリップ・オギュストと結婚するために、はるばると旅して異国に赴いたが、結婚の翌日離婚されて、言葉も知らないその国で、修道院に監禁の憂き目にあっている。そんな目にあう位なら自分の国で修道院に入ってしまう方が余程ましではなかろうか。
とにかく、「姫は亡くなった」ということで、ディエゴ司教は、王の使者としての勤めから解放されることになる。彼は、王に姫の死亡を知らせる使者を送り、自身は、ドミニコを伴ってローマに赴き、冬をそこで過ごす。
この時、ディエゴは、オスマの司教座を退いて、北方の異民族のところに宣教に行く許可を教皇に願っている。いつも司教と行動を共にしていたドミニコも、この同じ望みを抱いていたであろうことは、想像に難くない。後年、ドミニコが、やっと組織らしいものができたドミニコ会を、兄弟たち(ドミニコ会員は、互いを兄弟と呼ぶ)の手に委ねて、自身は、北方の異教徒への宣教に出かけようとしたことも、これを裏付ける。しかし、教皇は、これを許さなかった。
カスチリア王が司教に託した使命は失敗に終わった。しかし、神のご計画は、これらすべての中にまっすぐに進められていく。カタル派との出合い、北方の異教徒との出合いの中で、ディエゴ司教とドミニコの、使徒としての精神は、次第に燃え上がる。カスチリアの世界を越えて、彼らの宣教の畑はひろがっていく。
北方への宣教を許可しなかった教皇は、彼らに、南仏でのひとつの重要な使命を託したのであろうか。あるいは、次におこる出来事は、偶然なのであろうか。とにかく、1206年春、アルプスを越えてカスチリアへの道を辿るかにみえたディエゴ司教の一行は、南仏で、対カタル派の説教団のただ中に置かれることになる。
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