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「聖ドミニコの生涯」シスター武田教子

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子 「モンペリエの会議」Ⅰ

巣箱⑭


1206年6月のある日、少数の騎馬の一団がモンペリエに着いた。オスマのディエゴ司教の一行である。ローマをたった一行は、シトーに行き、そこでディエゴ司教は白い修道服を受け、今、その帰路、ここに立ち寄ったのである。オスマの司教座参事会副院長で、司教の貴重な伴侶、ドミニコも、勿論その中にいた。他に、オスマ教区の司祭数人、シトーから同伴してきた修道士数人、召使と、荷物を積んだ馬が、その一行を構成していた。次第次第にカタル派の勢力が強まる南仏の中で、モンペリエの町は、カトリックにとって、ほっと一息つける場、平和の場だった。
 町に入ると間もなく、一行は、シトー会修道士たちの集会に出会う。対異端活動の頭として教皇から勅使に任命されている、シトーの院長のアルノー・アモリイを中心に、同じくシトー会修道士で、フォンフロワド修道院所属であり、やはり勅使の任命を受けているピエール・ド・カステルノーとラウル、およびフォンフロワドの他の多くの修道士たちが、そこに集まっていた。
 ディエゴ司教は、教皇から何らかの使命を受けて、そこに来合わせたのであろうか。それはわからない。とにかく、勅使に対するローマからの指令は、可成り頻繁に届いていた。1204年から1207年の期間だけでも教皇からのこの種の文書三十通位が現存している。これは、当時の交通の便を示すと共に、この活動に対する教皇の非常な関心を示すものである。
 ところが、現実は、なかなか教皇の期待通りにはいかなかった。勅使たちの善意と努力にもかかわらず、いろいろな試みはあまり効果をあげなかった。しかも、彼らは、特に、ナルボンヌの大司教への対処の仕方について、教皇が自分たちを理解していないと感じて勇気を失い、実りのないこの仕事をあきらめかけていた。そこへ、ディエゴ司教の一行が来合わせたのである。
 南仏とカスチリアは遠くはない。勅使たちは、学、徳、行動力、共に優れたディエゴ司教の名声を聞き及んでいた。彼らは、司教に助言を求める。
 ここで、ちょっと、勅使たちの活動に触れておこう。ピエール・ド・カステルノーは勅使として最も古い。辞令は紛失しているが1203年12月13日には、既に勅使として活躍しているから、同年10月か11月の任命であろう。彼は、教会法にくわしく、容赦なく、且、巧妙に、異端に対するラテラノ公会議の決定を適用していく。異端を壊滅させるには、決定的な手段をも辞さなかった。しかし、教皇の態度は、これと違っていた。時のインノセント三世教皇は、常に司牧者の態度を持し、勅使に宛てた手紙の中で、勅使の勤めを一言で言い表すときは、「みことばの役務と、教義を説くことに献身する」と言っている。ピエール・ド・カステルノーが、活動の効果があがらないので落胆していたとき、教皇は、彼に、次のように書き送っている。「心を尽くしてあなたの役務、即ち、福音を告げる者として務めを果たしなさい。即ち、忍耐と、教義の明瞭さを以って、時があろうとなかろうと、論証し、嘆願し、論駁しなさい。」

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聖ドミニコ女子修道会

Author:聖ドミニコ女子修道会
長い歴史があるキリスト教カトリックの女子修道会です。日本では、学校や幼稚園、児童養護施設でキリスト教に基づく教育をしています。また、教会、病院、黙想の家、その他でも<みことば>を伝えています。

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