「聖ドミニコの生涯」
「聖ドミニコの生涯」 シスター武田 教子
生誕の地 3

聖ドミニコは、このカレルエガの地に、おそらく1171年、フェリス・デ・グスマンを父とし、ホアナ・デ・アサを母として呱呱の声をあげた。出生前に、母ホアナが守護を願うために訪れたシロスの聖ドミニコ修道院長の名をとってドミニコと名付けられた。ドミニコが生まれたという場所は現在は井戸なっている。ドミニコの兄弟のアントニオが、ここがドミニコの生まれた場所だと示したところに掘ったものだという。これは、現在の女子ドミニコ会の観想修道院の聖堂の下になっており、今も滾滾と水が湧いている。
ドミニコには、兄弟が少なくとも二人はいたらしい。一人は前掲のアントニオで、恐らく兄に当たり、司祭で、施療所で貧しい人びとへの奉仕に生涯を捧げた立派な人であったといわれる。もう一人は異父兄弟で、マンネスと呼ばれ、観想家であると同時に火のように熱烈な説教者、柔和、謙遜、親切な人で、ドミニコ会設立当初からドミニコの傍らにいて、共に働いた人である。ドミニコにはこのほかにも兄弟か姉妹が少なくとも一人はいたに違いない。というのはドミニコの甥が二人。ドミニコ会員として立派な生活を送ったという記録が残っているからである。
マンネスが異父兄弟、恐らく弟であったということは、父のフェリスは割に早く亡くなり、母ホアナは再婚したということになる。いずれにせよ、ドミニコは幼年時代をカレルエガで過ごした。何故なら、カレルエガはもともとアサ家の所有地で、母のホアナの領有だった。
ドミニコ時代の建物で現在も残っているのは、壁の一部と葡萄酒を貯蔵していた穴蔵、それに四角い塔だけである。この塔は、高さは17メートル、壁の厚さは2メートルもある。もともとは戦争用の櫓だった。この塔に登ると、東西南北が一望のもとに見渡される。幼いドミニコは、何度この塔にかけ登り、現在も大して変わっていないこの景色を目にしたことであろうか。

2018年1月25日厳寒の三居沢
生誕の地 3

聖ドミニコは、このカレルエガの地に、おそらく1171年、フェリス・デ・グスマンを父とし、ホアナ・デ・アサを母として呱呱の声をあげた。出生前に、母ホアナが守護を願うために訪れたシロスの聖ドミニコ修道院長の名をとってドミニコと名付けられた。ドミニコが生まれたという場所は現在は井戸なっている。ドミニコの兄弟のアントニオが、ここがドミニコの生まれた場所だと示したところに掘ったものだという。これは、現在の女子ドミニコ会の観想修道院の聖堂の下になっており、今も滾滾と水が湧いている。
ドミニコには、兄弟が少なくとも二人はいたらしい。一人は前掲のアントニオで、恐らく兄に当たり、司祭で、施療所で貧しい人びとへの奉仕に生涯を捧げた立派な人であったといわれる。もう一人は異父兄弟で、マンネスと呼ばれ、観想家であると同時に火のように熱烈な説教者、柔和、謙遜、親切な人で、ドミニコ会設立当初からドミニコの傍らにいて、共に働いた人である。ドミニコにはこのほかにも兄弟か姉妹が少なくとも一人はいたに違いない。というのはドミニコの甥が二人。ドミニコ会員として立派な生活を送ったという記録が残っているからである。
マンネスが異父兄弟、恐らく弟であったということは、父のフェリスは割に早く亡くなり、母ホアナは再婚したということになる。いずれにせよ、ドミニコは幼年時代をカレルエガで過ごした。何故なら、カレルエガはもともとアサ家の所有地で、母のホアナの領有だった。
ドミニコ時代の建物で現在も残っているのは、壁の一部と葡萄酒を貯蔵していた穴蔵、それに四角い塔だけである。この塔は、高さは17メートル、壁の厚さは2メートルもある。もともとは戦争用の櫓だった。この塔に登ると、東西南北が一望のもとに見渡される。幼いドミニコは、何度この塔にかけ登り、現在も大して変わっていないこの景色を目にしたことであろうか。

2018年1月25日厳寒の三居沢
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