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「聖ドミニコの生涯」 シスター武田 教子

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田 教子 「イエス・キリストの説教」Ⅱ

マンサク 1


 1207年春、ディエゴ、ラウル、ドミニコら教皇派遣の説教者たちは、この町に集合した。カタル派対カトリックの論争が行われることになったのである。
 この出会いを提案したのは、多分カタル派だったろう。ディエゴやラウルの論戦に対して、ばらばらに毎日毎日対決するよりは、まとめてしたいと考えたようだ。
 しかし、このような公開討論はカトリック側にとっても望ましいものであった。公開することによって、カタル派の説教をきいた聴衆自身が論の矛盾をききわけることができるのであり、時と場合によっていろいろに論を変えるカタル派との論争ではこれは特に必要なことであった。
 北から南から、両派の説教者たちが、続々と巴旦杏の花ざかりの丘を縫ってモレアルに集まってきた。こうして、十か月来あちこちで論戦を繰り広げてきたカトリックとカタル派は、それぞれ代表者を四人ずつ出して、教会対教会という形で論争に臨んだのである。
 このような場が領主の介入なしに設けられた筈はない。むしろ、彼がこれを主催したに違いない。習慣に従って、貴族と市民の中から四人の裁定者が選ばれた。カトリック側が二人、カタル派が二人を指名したにもかかわらず、この四人が四人共カタル派の信者もしくは親派だったということは驚くべきことであり、この地方の宗教状態を示すに十分なものである。
論争は二週間続いた。まずカタル派が攻撃し、カトリック側はディエゴが受けて立った。カタル派は旧約聖書を排していたので、新約聖書のみを用いて論じなければならなかった。攻撃に答えるだけではない。問題はカトリック教会はカタル教会を異端というかの点にあるのであり、それは、神の一性、救世におけるキリストの十字架の役割り、罪、救いの性格にあった。ディエゴと共に全員が熱誠をこめて論じた。より効果的にするために、書いて論争した。即ち、まず自分の論とその論証を書き、それを用いて論じ、その後で更に証明と答えを書いた。この文書は裁定者の手に渡され、採決の為に用いられた。論争の前後のこの書き物は多くの時間を要した。
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聖ドミニコ女子修道会

Author:聖ドミニコ女子修道会
長い歴史があるキリスト教カトリックの女子修道会です。日本では、学校や幼稚園、児童養護施設でキリスト教に基づく教育をしています。また、教会、病院、黙想の家、その他でも<みことば>を伝えています。

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