FC2ブログ

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子 「イエス・キリストの説教」Ⅳ

19 チュウリップ 2


 自分たちの側から出た論者の明白な敗北にど肝を抜かれた裁定者たちは、判断も決定も差し控えた。また、カトリック側にまとめを返すことも拒否し、-それが一般の人びとの目にふれることを恐れて-敵方に渡した。そしてそれは失われたしまった。
 しかし、貴重な収穫が残った。完全者たちは、今までよりももっと教皇派遣の説教者への対抗意識を持ってこの場を去ったとしても、また、領主や貴族たちが自分たちの態度を変えようとしなかったとしても、百五十人が異端をすてた。
 この論争の後、ピエール・ド・カステルノーは、ツールーズの伯爵に、武力を以ってでも異端を排させようとする企てに奔走する。しかし、ディエゴ、ラウル、ドミニコは、全く別の道を選んだ。彼らはモレアルにとどまり、得た成功を更に進めようとしていた。そして、神のみことばを蒔きながら、村から村へ、城から城へとめぐり歩き、周囲に輝きを放っていた。彼らは、ディエゴの模範にならい、家々でパンを乞いながら行った。特にオスマの司教ディエゴの謙遜と倫理的美しさは、皆に強い印象を与え、不信仰者の心までもかち得ていった。
 四月末、説教者たちに新手が加わった。アルノー・アモリイがシトー会の十二人の院長をひき連れてモレアルに入ったのである。使徒たちの数にならって十二人。そして、各人ひとりずつの伴侶を伴っていた。一年余り前アルノーが約束したこと、三年前にインノセント三世教皇がシトー会に託したことが、遂に実現したのである。彼らの呼び名、それは、「イエス・キリストの説教」というのであった。
 当時のドミニコの姿を、目撃者のひとりが次のように伝えてくれている。
 朝から彼は歩き始める。もうひとり連れがいる。たいていはシトー会員だ。「二人ずつ行く」ということは、使徒の模範に倣うことであり、教会の伝統にもなっている。彼は手に杖を持っている。マルコ福音書によれば、イエスは杖だけは持つことを許している。彼の杖の上の方には、短い横木がついてTの字型になっている。帯には小刀をはさんでいる。(「安物の」という注がついている。)帯の上、服の襞の中にマタイ福音書とパウロの書簡を入れている。彼は服は一枚しか持っておらず、それも粗末な継ぎはぎの物だった。その上に貧弱な合羽をまとっていた。お金も財布も袋も持っていない。川を渡る渡し舟の渡し賃も持っていない。
 彼ははだしで歩く。これもまた使徒の模倣であった。しかし、一二一五年、モンペリエの公会議は、説教者がはだしで行くいくことを禁じたので(文字通りはだしで歩くことことと説教の権利をむすぶつけてはだしで歩いた異端者を区別するため)、それ以後、ドミニコは靴を肩に担いで歩き、町に入るとそれを履いた。つまり、田舎の悪い道だけをはだしで歩いたのである。尖った石で足を痛めると、嬉しそうに、「これは償いだ」と言った。雨が降ってあまり道が滑って、靴を履かないと歩けないような時は悲しんだ。
 敵たちは彼の犠牲を増した。ある日、ドミニコは、その地の司教と共に公開討論会に赴いた。ドミニコの勧めに従って司教は馬を返し、二人ははだしで歩いて行った。道は長く困難だった。ひとりの男が道案内を買って出た。彼はひそかに異端にくみしていた者で、意地悪く、わざわざ茂みや刺の中を案内し、間もなく二人の足とすねは血だらけになってしまった。ドミニコは、すべてを忍耐強く耐え、歌まで歌い、叫んだ。「私たちはきっと勝つ。もう私たちの罪は血の中に洗われたのだから。」実際、その討論会では、多くの改宗者があり、その第一はこの案内者だった。
 
スポンサーサイト



コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

聖ドミニコ女子修道会

Author:聖ドミニコ女子修道会
長い歴史があるキリスト教カトリックの女子修道会です。日本では、学校や幼稚園、児童養護施設でキリスト教に基づく教育をしています。また、教会、病院、黙想の家、その他でも<みことば>を伝えています。

最新記事
カテゴリ
カレンダー
プルダウン 降順 昇順 年別

07月 | 2019年08月 | 09月
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31


検索フォーム
リンク
QRコード
QR