FC2ブログ

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

「聖ドミニコの生涯」シスター武田教子「ファンジョー,プルイユ,ツールーズ」Ⅳ

dominiko.jpg


 1207年の夏、ディエゴは、二年余りも留守にしたオスマの司教区の仕事を整理するため、そして、恐らく、南仏での説教のために同志と資金を集める意図をもって、オスマに向って出発した。この意図は、十年以上も常に行動を共にしていたドミニコを南仏に残して自分だけオスマに向かったことでも察せられる。パミエで異端者との大論争があり、ここで改宗したカタル派の教師が今度はカトリックの説教者として活躍を始めるというできごともあり、「イエス・キリストの説教」は次第に成果をあげていく。
 十年来、常に行動を共にしてきたディエゴと別れて南仏に踏みとどまったドミニコの胸中はどのようなものであったであろうか。さて、数週間後、オスマに着いたディエゴは、そこで精力的に仕事を整理し、再び南仏にむけて出発しようとしていた矢先に病を得、1207年12月30日、没した。
 三週間後、ドミニコは、ディエゴの死と、ピエール・ド・カステルノーの暗殺(1208年1月14日)とを続けて知ったのである。ピエール・ド・カステルノーは、前にも述べたように、容赦ない性格で、異端を壊滅させるためには決定的な手段をも辞さなかったので、論敵の恨みを買ったのである。ラウルは、既に病没していた。アルノー・アモリは留守だった。シトー会の院長たちはそれぞれの修道院に帰ってしまっていた。やっと成果をあげはじめた膨大な仕事を前に、ドミニコはただひとりの指導者として残ったのだった。
スポンサーサイト



コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

聖ドミニコ女子修道会

Author:聖ドミニコ女子修道会
長い歴史があるキリスト教カトリックの女子修道会です。日本では、学校や幼稚園、児童養護施設でキリスト教に基づく教育をしています。また、教会、病院、黙想の家、その他でも<みことば>を伝えています。

最新記事
カテゴリ
カレンダー
プルダウン 降順 昇順 年別

11月 | 2019年12月 | 01月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -


検索フォーム
リンク
QRコード
QR