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「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

「聖ドミニコの生涯」 「ファンジョー,プルイユ,ツールーズ」Ⅵ

紫式部


ドミニコは、非常に遠慮深い人だった。町から町へ、村から村へと説教して歩くとき、埃だらけで疲れ果てた姿でどこかの家に着いてその家の人をうろたえさせることを欲しなかったので、目指す町や村に近い泉や流れのほとりに足をとめ、そこで顔や足を洗って身をととのえ、水を飲んで渇きをいやしてから着くようにしていた。モレアルの町から二キロ位離れた木立の中の泉も、ドミニコがそのように用いた場所だと言い伝えられている。
 ドミニコは、司教になるよう、少なくとも二度要請されているが、いつもことわっている。彼は位階など持たず、単なる説教者に過ぎない自由を大切にしていたのである。彼の使命は説教を続けることであった。
 1215年、種々の事情から、「イエス・キリストの説教」はツールーズに中心が移され、ドミニコはツールーズに移る。ドミニコの活動はここでも実り多く、婦人たちの改宗者もあって、プルイユのようなセンターがここにも設立される。
 ここで、画期的なできごとがおこった。1215年4月、ツールーズの富裕な市民二人がドミニコの手の中に誓願をたてたのである。かれらのうちのひとり、ピエール・セイラはナルボンヌ城に接する自分の家を、ドミニコとその兄弟たちに提供した。この家は、今でも昔のままの外観を保ち、ドミニコがそこで休んだといわれる部屋もみることが出来る。ここで、通称ドミニコ会と呼ばれる「説教者兄弟会」はうまれた。
 この家は、ナルボンヌの門のそばにあり、三世紀以来町の城壁となっていたガロ・ロマン様式の壁を一部とりいれた形になっている。この家を得たことは、ドミニコと兄弟たちにとって幸運であった。戦乱が続く中にあって、期せずしてナルボンヌ城の庇護のもとに置かれたことになる。また、ナルボンヌの門からの道は、ファンジョー、プルイユへの道でもあった。こうして、これまで、説教行脚に出ていない時は小さな町ファンジョーか、畑に囲まれたプルイユに住んでいたドミニコは、初めてツールーズという大都市に居を構えることになった。
 これまでの修道会が、町を離れて、あるいは山の上に、あるいは田園に修道院を設けたのに対し、ドミニコは都市に修道院をもうけた。とはいうものの、ドミニコは、好んで町の内と外の境い目、町の門のそばに修道院をもうけた。いくつかの町では、城壁から直接修道院に出入りする口をつける特権を得、町の門がしめられた後でも自由に出入りできるようにして、兄弟たちの説教活動を容易にした。
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聖ドミニコ女子修道会

Author:聖ドミニコ女子修道会
長い歴史があるキリスト教カトリックの女子修道会です。日本では、学校や幼稚園、児童養護施設でキリスト教に基づく教育をしています。また、教会、病院、黙想の家、その他でも<みことば>を伝えています。

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