「ドミニコとはどんな方?」 6-2
「祈りの人」 2(1のつづき) シスター武田教子

自分が相応しくないことを知る者にとって、唯一とり得る謙遜な態度として、土とひとつになり、自分全体を土に伏せて深くひれ伏しました。また、しばしば幸いなるドミニコは顔を地につけて、全く体を伸ばして祈っていました。 ――(聖ドミニコの九つの祈り方 第二)
聖ドミニコは特に好んで十字架を観想していました。彼は十字架の秘儀に深く入り、見つめていました。彼は十字架の前で何度も膝を折って礼拝していました。 ――(聖ドミニコの九つの祈り方 第四)
聖ドミニコは立って祈ることを好みました。彼は神のみ前にただ立っています。開いた手は奉献のしるし、イエスの開いた脇から迸る水、生きるために必要ないのちの水を汲むしるしです。
修道院にいたとき、聖なる父ドミニコはまた、ときどき、何にも寄りかからずに真っすぐに立ち、両手を胸の前に、丁度本を開い たような形で開いて、祭壇の前に立っていました。 ――(聖ドミニコの九つの祈り方 第五)
十字架上でご自分をお捧になった救い主に一致するため、聖ドミニコは腕を十字架の形に広げ、掌を天に向けて開いて祈るのを特に好んでいました。 (聖ドミニコの九つの祈り方 第六)。彼は同時代に生きた聖フランシスコのように聖痕を受けたとは言われていません。彼はそれを願いもしませんでした。しかし、彼は主の弟子と呼ばれるに値するために、自分の十字架を担うようにという主の呼びかけを実現することを欲しました。また、他のときには、聖ドミニコが手を開き、腕を十字架の形に強く延ばし、体をできるだけ真っ直ぐに延ばして立って祈っているのを見ました。
立った姿勢のまま、聖ドミニコは、弓から放たれた矢のような、独特の姿勢もとりました。彼は主に向かって引き絞られ、放たれた矢のようです。彼は主に向かって突進します。否、むしろ私たちの中にいまし、祈りの強い原動力である聖霊の力によって主に向かって放たれます。 ――(聖ドミニコの九つの祈り方 第七)
ドミニコは祈りに沈潜しました。それは、あたかも蒸留器の中で澄まされ、清められ、変容されてすべての考えが蒸留してしまって、彼自身完全な捧げ物となって飛翔するようでした。体で祈っているというより、彼の体は祈りになっていました。聖パウロが言っている通りです。「初穂として聖霊をいただいているわたしたち自身も、体のあがなわれることを待ち焦がれて、心な中でうめいています」。 ――(ローマの信徒への書簡 第八章二三節)
彼は自分のために祈っていたのではありませんでした。キリストのように、彼は他の人々のために祈りました。彼は、全世界のために願っているこの被造界の変容を、主が彼の中にお始めになるにまかせます。「今もなお、被造物が皆共にうめき、共に生みの苦しみを味わっていることを知っています。」 ――(ローマの信徒への書簡 第八章 二二節)
聖ドミニコの祈りの独自性はここにあります。彼の祈りは、その説教と同じく活動的です。なぜなら、祈りと説教は別なものではないからです。昼、種まく人は種を蒔きます。夜、主が種を成長させます。昼をドミニコは人々と説教に捧げます。夜を彼は神と祈りに捧げます。粘土で形を造ることと窯で焼くことが不可分であるように、両者は不可分です。同じひとつの業、同じひとつの目的が、同じひとつの心配りから発しています―人々の救い。

自分が相応しくないことを知る者にとって、唯一とり得る謙遜な態度として、土とひとつになり、自分全体を土に伏せて深くひれ伏しました。また、しばしば幸いなるドミニコは顔を地につけて、全く体を伸ばして祈っていました。 ――(聖ドミニコの九つの祈り方 第二)
聖ドミニコは特に好んで十字架を観想していました。彼は十字架の秘儀に深く入り、見つめていました。彼は十字架の前で何度も膝を折って礼拝していました。 ――(聖ドミニコの九つの祈り方 第四)
聖ドミニコは立って祈ることを好みました。彼は神のみ前にただ立っています。開いた手は奉献のしるし、イエスの開いた脇から迸る水、生きるために必要ないのちの水を汲むしるしです。
修道院にいたとき、聖なる父ドミニコはまた、ときどき、何にも寄りかからずに真っすぐに立ち、両手を胸の前に、丁度本を開い たような形で開いて、祭壇の前に立っていました。 ――(聖ドミニコの九つの祈り方 第五)
十字架上でご自分をお捧になった救い主に一致するため、聖ドミニコは腕を十字架の形に広げ、掌を天に向けて開いて祈るのを特に好んでいました。 (聖ドミニコの九つの祈り方 第六)。彼は同時代に生きた聖フランシスコのように聖痕を受けたとは言われていません。彼はそれを願いもしませんでした。しかし、彼は主の弟子と呼ばれるに値するために、自分の十字架を担うようにという主の呼びかけを実現することを欲しました。また、他のときには、聖ドミニコが手を開き、腕を十字架の形に強く延ばし、体をできるだけ真っ直ぐに延ばして立って祈っているのを見ました。
立った姿勢のまま、聖ドミニコは、弓から放たれた矢のような、独特の姿勢もとりました。彼は主に向かって引き絞られ、放たれた矢のようです。彼は主に向かって突進します。否、むしろ私たちの中にいまし、祈りの強い原動力である聖霊の力によって主に向かって放たれます。 ――(聖ドミニコの九つの祈り方 第七)
ドミニコは祈りに沈潜しました。それは、あたかも蒸留器の中で澄まされ、清められ、変容されてすべての考えが蒸留してしまって、彼自身完全な捧げ物となって飛翔するようでした。体で祈っているというより、彼の体は祈りになっていました。聖パウロが言っている通りです。「初穂として聖霊をいただいているわたしたち自身も、体のあがなわれることを待ち焦がれて、心な中でうめいています」。 ――(ローマの信徒への書簡 第八章二三節)
彼は自分のために祈っていたのではありませんでした。キリストのように、彼は他の人々のために祈りました。彼は、全世界のために願っているこの被造界の変容を、主が彼の中にお始めになるにまかせます。「今もなお、被造物が皆共にうめき、共に生みの苦しみを味わっていることを知っています。」 ――(ローマの信徒への書簡 第八章 二二節)
聖ドミニコの祈りの独自性はここにあります。彼の祈りは、その説教と同じく活動的です。なぜなら、祈りと説教は別なものではないからです。昼、種まく人は種を蒔きます。夜、主が種を成長させます。昼をドミニコは人々と説教に捧げます。夜を彼は神と祈りに捧げます。粘土で形を造ることと窯で焼くことが不可分であるように、両者は不可分です。同じひとつの業、同じひとつの目的が、同じひとつの心配りから発しています―人々の救い。
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