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「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

「聖ドミニコの生涯 」 シスター武田教子 「ファンジョー、プルイユ、ツールーズ」Ⅲ

梅


 いつもアイディアにあふれていたディエゴは決して困らなかった。 彼は、これらの人びとで修道院をつくる決心をした。共に住み、共に祈り、娘たちの教育を続けることができよう。他方、カタル派の説教者の宿泊施設のようなものをカトリックの説教者に提供することもできよう。
 こうして、1206年から1207年にかけて、プルイユに「イエス・キリストの説教」のセンターができた。これがモデルになって、数か月後にはあちこちに説教センターがつくられてゆく。
 プルイユの荒れたサント・マリー教会をこのセンター修道院として譲り受ける代わりに、ドミニコはファンジョーの教会の主任司祭となることを承諾し、カタル派の中心地であるこの町で、困難な司牧活動にもたずさわることになる。プルイユの修道院の最初の共同体をつくった十二人の修道女の名のリストが今も残っているが、それによると、数人は貴族階級に属した人たちであったことがわかる。女子修道院に隣接して、ドミニコと共に働く説教者たちや、家族ぐるみ、財産ぐるみで説教者たちの仕事を助けようとする人、あるいは、不安定な世情の中で少しでも安定を求めようとする人たちが住みついていった。事実、二年後の十字軍の嵐の中にあっても、プルイユは荒らされることなく、かえって十字軍の保護を受けてそこで生活を続けることができたのであった。

[聖ドミニコの生涯 シスター武田教子]

[聖ドミニコの生涯 シスター武田教子] 「ファンジョー、プルイユ、ツールーズ」Ⅱ

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 ドミニコが立っていた高台の下、畠の中を徒歩で二十分位行くと、東西南北の道が交錯する地点がある。プルイユである。言い伝えによろと、ドミニコが、夜、この高台で祈っていると、三晩続けて、火の玉が夜空を横切り、旋回してプルイユの教会の上にとまるのを見た。ドミニコはそこに神からのしるしを読みとり、この交通の要所、プルイユに宣教の拠点を設けることになる。このできごとを記念して、この高台は今もセニャドゥ(神のしるし)と呼ばれている。
 封建時代の初期、プルイユは或程度の重要性をもっていたが、ディエゴ、ラウル、ドミニコがプルイユ周辺で活動をはじめた頃は、見張り塔はこわされ、代わりに風車がたっていた。教会もすっかり荒れて、ファンジョーの教会の附属教会になっていた。十二世紀、ロラゲ一帯は、ツールーズ対ベッジェ・カルカッソンヌの勢力争いの場だったので、平地のプルイユは守り難く、人びとは周囲に散ったが遂にはそこも捨てて、農民も貴族もファンジョーの城壁の中にのがれたのである。
 「イエス・キリストの説教」は、間もなくプルイユに何人かの信者を得た。荒れはてていたプルイユの教会で祈りやミサが行われるようになった。ところが、ここで何人かの婦人たちの改宗があり、宣教は新しい展開をする。
 先に、カタル派の婦人たちが自宅を開放して説教者の世話をしたり、説教や儀式の場を提供していたとのべた。多くの婦人たちは更に、完全者の共同体を営み、自分たちの財産も労力もすべて提供して、カタル派説教者たちの宣教活動を支え、説教者たちが憩い、食事をとり、宿泊して力をとりもどして再び宣教にでかけていくセンターの役割りを果たしていた。また、共同体の中に若い娘たち、時には七才、五才、二才の幼児まであずかって、自分たちの信念に従って教育していた。こうした婦人や娘たちのある人びとがカトリックに改宗したのである。彼女たちは、家族がカタル派なので、家族のもとに帰るわけにはいかなっかたばかりでなく、熱心な信仰者として今までカタル派の中でしてきた生活に匹敵する生活の場を、カトリック教会の中で見いださなければならなかったのではないか。

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

「聖ドミニコの生涯」シスター武田教子 「ファンジョー、プルイユ、ツールーズ」Ⅰ

つつじ


 気性が激しく、いつも新しいアイディアにあふれていたディエゴと対照的に、ドミニコは自分の計画を長い時間をかけて熟させ、着実に実現させていくというタイプだった。何か、あるできごとで衝撃を受けると、すぐに行動に出るというよりも、まずショックを心で受け止め、心中に変化がおこるのであった。ドミニコの生涯をたどると、ドミニコがこの種のショックをファンジョーで受けたということを読みとることができる。
町の南の門からファンジョーに入ったドミニコは、丘の頂上にある教会を通って城に至る。更に城壁に沿って北にまわると、石灰質の高台からロラゲの平野が一望のもとに見渡せる。ひろびろと広がるこの地!この地を神のみ国としなければならない!この景色はドミニコの胸の中で、幼い頃、カレルエガのサン・ホルへの丘の上から見た景色と重なり合ったのではないだろうか。そして、心中の呼びかけも。そうだ、この為にこそ彼は祈り、学び、司祭となったのだ。
 しかし、今見渡すこの地は、戦争に荒らされていた。多くの建物が廃墟と化し、教会も荒れ放題となっていた。それにも増して、人々の心はすさんでいた。キリスト者と自称する人々の争いの中で、民衆は次第に社会的にも宗教的にも無関心、不道徳となっていく。この民衆に、どうしたら真の平和と信仰をかえすことができるのだろうか?

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田教子 「イエス・キリストの説教」Ⅳ

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 自分たちの側から出た論者の明白な敗北にど肝を抜かれた裁定者たちは、判断も決定も差し控えた。また、カトリック側にまとめを返すことも拒否し、-それが一般の人びとの目にふれることを恐れて-敵方に渡した。そしてそれは失われたしまった。
 しかし、貴重な収穫が残った。完全者たちは、今までよりももっと教皇派遣の説教者への対抗意識を持ってこの場を去ったとしても、また、領主や貴族たちが自分たちの態度を変えようとしなかったとしても、百五十人が異端をすてた。
 この論争の後、ピエール・ド・カステルノーは、ツールーズの伯爵に、武力を以ってでも異端を排させようとする企てに奔走する。しかし、ディエゴ、ラウル、ドミニコは、全く別の道を選んだ。彼らはモレアルにとどまり、得た成功を更に進めようとしていた。そして、神のみことばを蒔きながら、村から村へ、城から城へとめぐり歩き、周囲に輝きを放っていた。彼らは、ディエゴの模範にならい、家々でパンを乞いながら行った。特にオスマの司教ディエゴの謙遜と倫理的美しさは、皆に強い印象を与え、不信仰者の心までもかち得ていった。
 四月末、説教者たちに新手が加わった。アルノー・アモリイがシトー会の十二人の院長をひき連れてモレアルに入ったのである。使徒たちの数にならって十二人。そして、各人ひとりずつの伴侶を伴っていた。一年余り前アルノーが約束したこと、三年前にインノセント三世教皇がシトー会に託したことが、遂に実現したのである。彼らの呼び名、それは、「イエス・キリストの説教」というのであった。
 当時のドミニコの姿を、目撃者のひとりが次のように伝えてくれている。
 朝から彼は歩き始める。もうひとり連れがいる。たいていはシトー会員だ。「二人ずつ行く」ということは、使徒の模範に倣うことであり、教会の伝統にもなっている。彼は手に杖を持っている。マルコ福音書によれば、イエスは杖だけは持つことを許している。彼の杖の上の方には、短い横木がついてTの字型になっている。帯には小刀をはさんでいる。(「安物の」という注がついている。)帯の上、服の襞の中にマタイ福音書とパウロの書簡を入れている。彼は服は一枚しか持っておらず、それも粗末な継ぎはぎの物だった。その上に貧弱な合羽をまとっていた。お金も財布も袋も持っていない。川を渡る渡し舟の渡し賃も持っていない。
 彼ははだしで歩く。これもまた使徒の模倣であった。しかし、一二一五年、モンペリエの公会議は、説教者がはだしで行くいくことを禁じたので(文字通りはだしで歩くことことと説教の権利をむすぶつけてはだしで歩いた異端者を区別するため)、それ以後、ドミニコは靴を肩に担いで歩き、町に入るとそれを履いた。つまり、田舎の悪い道だけをはだしで歩いたのである。尖った石で足を痛めると、嬉しそうに、「これは償いだ」と言った。雨が降ってあまり道が滑って、靴を履かないと歩けないような時は悲しんだ。
 敵たちは彼の犠牲を増した。ある日、ドミニコは、その地の司教と共に公開討論会に赴いた。ドミニコの勧めに従って司教は馬を返し、二人ははだしで歩いて行った。道は長く困難だった。ひとりの男が道案内を買って出た。彼はひそかに異端にくみしていた者で、意地悪く、わざわざ茂みや刺の中を案内し、間もなく二人の足とすねは血だらけになってしまった。ドミニコは、すべてを忍耐強く耐え、歌まで歌い、叫んだ。「私たちはきっと勝つ。もう私たちの罪は血の中に洗われたのだから。」実際、その討論会では、多くの改宗者があり、その第一はこの案内者だった。
 

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田 教子

「聖ドミニコの生涯」 シスター武田 教子 「イエス・キリストの説教」 Ⅲ

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モレアルの近くでおこったということだけがわかっているあるできごとがこの時のことだとすると、ドミニコはこの論争のある部分を受け持った。或る夜、ドミニコは、自分が論争中に引用した聖書や教父のテキストを書き出し、よく考えるようにとカタル派側に渡した。すると、そこで次のようなことがおこったといわれている。
 「夜間、異端者たちは火のまわりに座っていた。ドミニコから紙を渡された人は、それをまわりの者に渡した。その時、仲間たちはその紙を火の中に投げ込むことを提案した。もし焼けてしまえばそれは信用するに足りないものであり、焼けなければ信ずるべきだろう。全員この提案に賛成した。そして紙を火中に投げ込んだ。紙は火の中にしばらくとどまっていたが、焼けることなく火から飛び出してきた。皆は呆気にとられた。より頑なな者が、『もういちど火に投げ込め。そうすれば真理がもっとはっきりわかるだろう』と言った。それで、もういちど火中に投じたところ、もういちど、焼けることなく出てきた。これを見た頑なな者は、『三度投げ込め。そうすればはっきりするだろう』と言った。それで三度投げ込んだ。しかし紙は燃えず、そっくりそのまま出てきた。しかし、これを見ながらも、異端者は改宗しようとはしなかった。そして心の頑ななままに留まり、この奇跡が知れ渡らないようにといましめた。しかしそこに居合わせ、既にカトリック信仰に傾いていた一騎士が、自分の見たことを隠すのをよしとせず数人に語ったのである。」
 この逸話は、典型的なものである。論争の裁定者は、それだけ知的なものを持っていなかったので、テキストを読むよりも奇跡に頼ろうとした。しかし、モレアルの人びとは、奇跡と反対の決定をした。・・・・・
 この論争は、当時の神学論争のやり方にならっている。即ち、テーマをいくつかの質問にわけ、それをまず二流の神学者の間で論争させる。次に師たる者が、こうして解けかかった質問をひとつずつとりあげ、結論または決定にもっていく。こうして問題全部を扱った後で、敵味方それぞれ自分たちで集まって、証明と反論を付しながら論争をまとめ、決定を記す。
 このモレアルの論争では、何人かの説教者がまとめをつくったがドミニコのまとめが最良と判断され、カトリック側の代表としてえらばれたという。
プロフィール

聖ドミニコ女子修道会

Author:聖ドミニコ女子修道会
長い歴史があるキリスト教カトリックの女子修道会です。日本では、学校や幼稚園、児童養護施設でキリスト教に基づく教育をしています。また、教会、病院、黙想の家、その他でも<みことば>を伝えています。

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